■ 日本の歴史ブログ
伊達政宗:関ヶ原の戦いから大阪の陣そして晩年(後編)
関ヶ原の合戦が始まると政宗は上杉景勝の抑えとして背後を任されることになる。家康が西下する際に上杉軍が追撃出来ないよう牽制する大役を課せられたのである。
この時、政宗は家康から「100万石のお墨付き」を与えられている。早速、政宗は上杉領への侵攻を開始するとともに、上杉家家老の「直江兼続」が山形の最上領へ侵攻したため、最上家救援の軍勢を送ることにする。
この政宗の援軍により最上家は窮地を脱することが出来、直江兼続は撤退を開始。政宗は上杉家を牽制する役目を十分に果たした。
そして、中央では「関ヶ原の戦い」により家康率いる東軍が一日で勝利する。政宗は役目を十分に果たし「100万石のお墨付き」の約定通り領地を拝領するつもりでいたが、ここで大きな誤算が発生する。
同時期に南部領内(岩手県南部)で発生した「和賀忠親」による一揆を煽動し、その支援をしていたことが家康の耳に入ってしまい、結局「100万石のお墨付き」は不問にされてしまう。
慶長6年(1601年)になると居城を仙台へ移し、城普請と城下町の整備を始め、ここに「伊達政宗」を藩祖とする仙台藩が誕生する。
一方徳川家康は豊臣家の息の根を止めるべく、無理難題を押し付けて、大阪夏の陣・冬の陣が勃発する。これにはどうにかして豊臣家を弱体化させ、一大名にまで落とすか、滅亡させようとする家康の思惑があったと言われている。
しかし、正確にはどのような構図を描いていたのかは不明である。結果的に豊臣家は滅びることになる。この間、政宗は慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に参戦。この戦いは結局和議に終わっている。
翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、「道明寺の戦い」で後藤基次らと戦い奮戦した。さらに真田幸村とも交戦するが、巧みな戦術を繰り出す真田勢に反撃を受けて後退を余儀なくされた。
真田勢はその後も奮戦したが、次々と新手を繰り出す家康軍の前についに幸村も討たれることとなり、こうして大阪城は落城し、豊臣秀頼・淀君(秀頼の母)親子は城内で自刃する。
戦後の論功行賞で伊達家には政宗の庶長子である伊達秀宗に、伊予国内宇和島10万石を与えられた。
こうして戦国時代も終焉となり、家康は徳川幕府を盤石にし慶長10年(1605年)征夷大将軍を秀忠に譲り、自身は隠居して駿府で大御所と称するようになる。
家康は元和2年(1616年)4月17日に駿府城にて逝去した。
享年75歳。
晩年の政宗は領国経営に力を入れながら2代将軍徳川秀忠、3代将軍徳川家光の代まで仕えた。そして、寛永11年(1634年)頃から体調不良を訴え、寛永13年(1636年)に江戸の伊達家上屋敷にて逝去した。享年70歳。
戦国時代の末期にすい星のごとく現れ、またたく間に奥羽の大部分を自領に組み込んだ伊達政宗。立地条件や時節に恵まれていたら、必ずや天下を争う一人として数えられたであろう。
※写真は夜の青葉城「日本100名城8番(仙台城)」
【青葉城・場所・アクセス】
〒980-0862 宮城県仙台市青葉区 天守台青葉城址
【青葉城地図】
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