■ 日本の歴史ブログ
伊達政宗:摺上原の戦いから関ヶ原の戦いまで(中編)
政宗は奥羽最大の大名へと上り詰めていた。しかし、中央では豊臣秀吉が織田信長の覇権を継承しており、関東の北条氏政・氏直親子征伐のため準備を進めていた。
その際、政宗のもとにも度々北条攻めに従うことを促す催促状が届いていたが、政宗はことごとく黙殺する。
北条氏とは長い間、同盟関係にあったため北条征伐の開戦間際まで秀吉と戦うか、北条征伐に加わるか悩んでいたという。しかし、秀吉の小田原征伐中の天正18年(1590年)5月、豊臣政権「五奉行筆頭」の浅野長政から小田原参陣を催促され、ついに政宗は小田原攻めに参陣することを決断する。
ここに政宗は秀吉政権下に服属し、北条親子が秀吉の軍門に降ると政宗の処遇も決定する。その内容は政宗が苦労の末、蘆名氏から奪い取った会津領の没収や伊達領の北部(宮城県北部・岩手県南部)の没収という厳しいものであった。
その後、会津には織田信長の娘婿「蒲生氏郷」が入封し、伊達氏に従属していた葛西・大崎氏の領地(宮城県北部・岩手県南部)は秀吉腹心の「木村吉清」に与えられることになる。
一方、まだまだ戦国大名としての野望を抑え切れていない政宗は、葛西・大崎氏の旧領内で一揆の扇動をし、これを完全におさめることで秀吉に認めてもらい、旧領回復を狙う。
しかし、政宗が一揆を扇動したという証拠が秀吉のもとへ届けられ、政宗はその証拠は偽物であると弁明し、一応許されるが先祖代々の米沢領や旧領を没収され岩出山へ転封(減封)させられてしまう。
※岩出山城
天下統一を果たした秀吉は今度は朝鮮出兵を決め、政宗にも動員命令が下される。政宗は第一回「文禄の役」には積極的に参戦したが、第二回「慶長の役」には参戦することはなかった。
ちなみに、政宗は上京する自身の軍勢に特別派手な衣装を着せ、京の人々を驚かせた。この派手な軍装を見た人々は、これを「伊達者(だてもの)」と呼称した。現在にも使われる言語「伊達者」の誕生である。
この朝鮮出兵の時期に、天下の覇者である「豊臣秀吉」はついに逝去する。ここに天下の様相は少しずつ変わり、徳川家康を中心とする一派と、秀吉の遺児「豊臣秀頼」を担ぐ一派(石田三成が中心)にわかれることになる。
秀吉の死後、徳川家康は天下人であった秀吉の遺言を破り、慶長4年(1599年)に政宗の長女「五郎八姫」と家康の六男「松平忠輝」を婚約させた。
こうして政宗は少しずつ徳川家康への距離を縮めていく。
慶長5年(1600年)家康が会津の上杉景勝討伐を決定し、軍勢を率いて北上すると中央で家康討伐を狙っていた石田三成がついに挙兵する。
徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍との間で全国を巻き込んだ東西決戦が行われ、日本の中央(近江国)では家康と三成との直接決戦が行われる。世に言う「関ヶ原の戦い」である。
そして、家康から会津(上杉景勝)の抑えとして奥羽に残されていた政宗のもとにも、この戦いの余波が訪れることになるのである。
※写真は政宗が秀吉との決戦を最後まで悩んだ北条征伐の小田原城(日本100名城23番)」
~ 後編に続く ~
【小田原城・場所・アクセス】
〒250-0014 神奈川県小田原市城内
【小田原城地図】
コメント
-
2016年 7月 26日
この記事へのコメントはありません。