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戦国時代に山形城を拠点に出羽国を統一した戦国武将 最上義光
最上義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国を統一した戦国大名である。最上家の第11代当主にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。
義光は永禄3年(1560年)に元服し将軍「足利義輝」より偏諱を賜り、源五郎義光と名乗った。義光は家督を継ぐと出羽国の統一を試み数々の戦を行う。天正5年(1577年)天童頼貞を盟主とする最上八楯と戦うが決着せず、和睦して頼貞の女を義光の側室に迎えた。
その後も「上山満兼」との戦で上山城を落とし、天正11年(1583年)には庄内地方の大宝寺義氏が最上攻めを計画したが、義光は事前に大宝寺の家臣の東禅寺義長らを内応させており、義長は謀反を起こし逆に義氏を急襲した。不意を突かれた義氏はなすすべも無く自刃した。
天正12年(1584年)には谷地城を攻略し、続いて寒河江城主「寒河江高基」を攻めて自害させ、寒河江氏を滅した。こうして出羽の国の統一戦は進んでいった。天正18年(1590年)になると「豊臣秀吉」の小田原征伐に参陣し、宇都宮城にて秀吉に拝謁し本領24万石の安堵を受けた。
豊臣秀吉が死去し、徳川家康が台頭すると慶長5年(1600年)家康は上杉討伐軍をおこす。最上家は徳川家に味方するも家康が上杉討伐から西へ兵を返すと、上杉家の家老「直江兼継」が出羽国へ侵入してきた。これに対抗する最上軍は終始攻め込まれ一時は山形城自体も危うくなるが、同じく家康方の「伊達政宗」の援軍により上杉軍は撤退して行った。
上杉軍が退却すると最上勢は上杉勢を素早く追撃し、失った領地を回復していった。庄内地方にも進攻し、短期間のうちに失った旧領の奪還に成功した。義光は上杉軍を撃退した功により、攻め取った庄内地方などの領有を認められ、計57万石を配領し大大名となった。
江戸幕府成立以降、義光は領内の開拓に尽力した。居城である山形城も改築し、国内有数の広さの平城に拡張するとともに、城下町の整備に取りかかった。また、上杉から奪い返した日本海の良港「酒田港」を最大限に活用し、領内の流通を盛んにして藩財政を大いに潤した。
義光の死後、後を継いだ家親は元和3年(1617年)に急死した。このため、家親の子「義俊」が後を継いだが、後継者をめぐるお家騒動が勃発し改易となってしまう。義俊は1万石を領していたが、義俊が逝去すると最上家はさらに5,000石に減らされ、大名の座から落ち交代寄合として明治維新を迎えた。
最上義光が築いた大大名としての地位は義光の死後、わずか2代で失われてしまった。
【山形城・場所・アクセス】
〒990-0826 山形県山形市霞城町1 霞城町
【山形城地図】
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