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最後はマニラにて死去 高槻城主でキリシタン大名 高山右近(ジュスト右近)後編
天正6年(1578年)高山右近が与力として従っていた「荒木村重」が主君「織田信長」に反旗を翻した。村重の離反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城に人質に出した。
そして、懸命に誠意を示しながら謀反を阻止しようとしたが結局失敗してしまう。右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会「オルガンティノ神父」に助言を求めたりした。
一方、信長は高槻城が要衝の地であったため、まずここを落とそうと考えた。右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内のキリシタンと宣教師を皆殺しにして、教会を壊滅すると脅迫する。
城内は徹底抗戦を訴える父「友照」らと開城を求める一派で真っ二つとなった。苦悩した右近はここにいたって城主を辞し、家族も捨てて紙衣一枚で城を出て信長の前に出頭した。
荒木村重は有岡城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしなかったが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となり、この後、村重の重臣であった「中川清秀」も織田信長に寝返った。
信長は右近の降伏を喜び再び高槻城主としての地位を安堵した上に、2万石から4万石に加増するという異例の措置をとった。天正10年(1582年)6月に「本能寺の変」で信長が没すると、明智光秀は右近と清秀の協力を期待していたが、右近は高槻城から「羽柴秀吉」の軍にかけつけた。明智軍と羽柴軍との戦い「山崎の戦い」では先鋒を務め、中川清秀や池田恒興と共に奮戦し光秀を敗走させ、その功績を認められてさらに加増された。
信長の後を事実上受け継いだ羽柴秀吉と、これを快く思わない「柴田勝家」との合戦「賤ヶ岳の戦い」では岩崎山の守備を担当するものの、柴田勝家の甥「佐久間盛政」の猛攻にあって中川清秀は討死し、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を取り留めた。
その後も家康軍との戦い「小牧・長久手の戦い」や「四国征伐」などにも羽柴軍の一員として参戦している。秀吉からの信任があつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とした。
しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行され、秀吉の側近の「黒田孝高」が真っ先に信仰を棄教するなどキリシタン大名には苦しい状況となる。しかし右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。
その後しばらくは同じキリシタンの「小西行長」に庇護されて小豆島や肥後などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて過ごした。
天正18年(1590年)の「小田原征伐」にも表向きは追放処分のままでありながら前田軍に属して従軍している。金沢城修築の際には、右近の先進的な築城法の知識が大きく役に立ったともいわれている。
利家の死後は嫡男「利長」にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと言われている。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城「富山城」の火災により、富山県高岡市に築かれるころになった「高岡城」の縄張を担当したといわれる。
徳川家康の天下となったあとの慶長19年(1614年)ついに家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、右近は加賀を退去した。家族と共に追放された「内藤如安」らと共に長崎からマニラに向かう船に乗り、12月にマニラに到着した。
イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン人のフィリピン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年(1615年)に息を引き取った。享年64。
葬儀はフアン・デ・シルバ総督の指示によってマニラ全市をあげて聖アンナ教会で盛大に行われた。戦国大名・キリシタン大名として戦国時代を激しく生き抜いた「高山右近」の名は、現在でも広く知られている。
【高槻城・場所・アクセス】
〒569-0075 大阪府高槻市城内町
【高槻城地図】
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