浅井長政 中編:織田家との決裂から姉川の戦い 武田信玄の西上へ 中編【日本の歴史ブログ】

写真は武田信玄が生前最後に落とした野田城

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織田家との決裂から姉川の戦い 武田信玄の西上へ 中編

元亀元年(1570年)信長が浅井長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り、徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過して越前国の朝倉方の城を攻め始めた。

長政は朝倉義景との同盟関係を重視し、織田徳川連合軍を背後から急襲する。この判断は長政の父・久政とその周りの重臣達の考えによるものが大きかったと言われている。

信長は殿軍(しんがり)を羽柴秀吉に命じ、命からがら近江を脱出することに成功する。同年6月、一旦兵を引いた信長は早くも軍を立て直し近江国姉川まで進軍し、ここに姉川の戦いが勃発する。

浅井長政 中編:織田家との決裂から姉川の戦い 武田信玄の西上へ

浅井方の先鋒「磯野員昌」が織田軍の備え「13段」のうち11段まで崩す猛攻を見せ、織田軍は窮地に立たされたという話が伝わっている。しかし、その真偽のほどは不明である。結局この戦は、織田・徳川連合軍の勝利に終わった。

同年9月には長政は朝倉軍や延暦寺・一向宗徒と連携し、再び信長への攻勢を強め坂本において森可成や信長の弟・織田信治らを討ち取る。しかし、信長は「足利義昭」に和睦の調停を依頼し、さらには「朝廷工作」をも行なったため12月に信長と勅命による講和が成立する。

和議が成立したのもつかの間、元亀2年(1571年)9月になると信長は浅井氏と協力関係にあった比叡山延暦寺を焼き討ちにしこれを壊滅させてしまう。元亀3年(1572年)7月には、信長が北近江に来襲し長政は朝倉家へ援軍を要請し、義景は1万5,000の兵を率いて近江に駆けつけた。

同年9月、将軍足利義昭の要請に応えて武田信玄が甲斐を進発する。その後、遠江で織田・徳川連合軍を撃破し(三方ヶ原の戦い)三河にまで進んだ。

浅井長政 中編:織田家との決裂から姉川の戦い 武田信玄の西上へ 中編【日本の歴史ブログ】

長政は織田軍を北近江に引き付けておき、武田信玄との挟撃を目論んでいたが同年12月、北近江に在陣の「朝倉義景」が、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国してしまう。これにより信長は北近江へは抑えの兵だけを残して岐阜城へ帰還することが出来た。

信玄は義景の独断に激怒し、再出兵を促す手紙を義景に送ったが、義景はそれに応じることなく自分の領地から出ようとはしなかった。それでも信玄は翌年2月には徳川家の「野田城」を攻め落とす。しかし、この時すでに信玄は重い病にかかっており結局逝去してしまう。

写真は武田信玄が生前最後に落とした野田城

これにより信長包囲網は敗れてしまい、信長は近江や越前に軍勢を向ける事が可能になった。ここから浅井家及び朝倉家の運命は下り坂へと向かっていくのであった。長政の苦難の始まりである。

※写真は武田信玄が生前最後に落とした野田城
写真は武田信玄が生前最後に落とした野田城

【野田城・場所・アクセス】
愛知県新城市豊島字本城






【野田城地図】





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