■ 日本の歴史ブログ
小田原城落城後の北条氏の行く末は
戦国時代に関東をほぼ手中に収めていた「北条氏政・氏照」兄弟は中央で天下を狙う豊臣秀吉になかなか屈しなかった。天正18年(1590年)に秀吉の北条征伐が開始されると圧倒的な勢力に北条氏は籠城するしかなかった。
今までに上杉謙信や武田信玄からの攻撃を幾度も跳ね返してきた北条氏には籠城戦に対する自信があったと伺える。しかし、すでに天下の形勢がかわったことに当主の氏政は気が付いていなかった。
奥羽の覇者「伊達政宗」の援助を期待していたということもあるが政宗は実質的には秀吉の軍門に降ることになる。一方、約20万の軍勢に囲まれた小田原城はこれといった打開策もなく、ただいたずらに評定を重ねるだけであった。ここから「小田原評定」という言葉が生まれた。
結局北条家は秀吉の軍門に下り「北条氏政・氏照」は切腹。当主の氏直は徳川家康の娘婿だったこともあり、命だけは助けられた。この氏直の家系が江戸期を通して家名を存続させた。
ちなみに、氏直は天正19年(1591年)になると家康から赦免され河内国と関東の領地を合わせて一万石の大名に返り咲いた。しかし同年、氏直は病死してしまい、氏規(従弟)の嫡子である「北条氏盛」が北条氏の後を継ぎ「狭山藩主」となり明治維新まで存続することになるのである。
最盛期は関東全域にまで領地を増やした北条家が最後はわずかに1万1千石の大名として江戸期を生き抜いたのであった。
【狭山藩陣屋跡・場所・アクセス】
〒589-0005 大阪府大阪狭山市狭山3丁目
【狭山藩地図】
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