■ 日本の歴史ブログ
亀井茲矩は秀吉に琉球攻めを懇願し許され琉球守を名乗るも・・・
亀井茲矩は尼子義久の家臣で毛利輝元により尼子家が滅びると、山中鹿之助とともに織田信長に援助を求め旧領回復に努める。
しかし、四方八方に敵が残る信長は毛利攻めには本腰を入れることが出来ずにいた。
そしてついに「羽柴秀吉」が中国地方総司令官に任命され毛利攻めを命じられると尼子家の旧臣は秀吉の与力として毛利攻めの先方を務める。
上月城の戦いでは秀吉から毛利攻めの最前線の城代を任されるが、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春ら毛利家の総力を挙げて攻撃してきたため、城は降伏・開城し尼子勝久は自刃する。
※亀井茲矩は援助を求めるため城を脱出していた。
その後も秀吉の与力として数々の武勲をあげる中、中央では明智光秀が主君である織田信長を討ちとり天下人となる。
その光秀を討ったのが羽柴秀吉である。
茲矩はそのまま秀吉の家臣となりこれまでの功績をたたえられ、鹿野城を与えられる。
毛利家が秀吉に和議を申し出て正式に臣下となった際、秀吉は茲矩にどんな恩賞が欲しいか聞いたところ、「琉球国を」と答えたため秀吉から「琉球守殿」と呼ばれることになる。
茲矩は琉球攻めの準備を行い、何度か実際に出兵もしているが嵐にあい船は押し戻され、新たに南蛮船を建造しているさなか、薩摩の島津家が琉球国を支配下に治めたとの報が入る。
誰よりも早く貿易による利益の重要性を知り、琉球を通じて富を築きたかった茲矩であるが、こうして茲矩の夢はついえたのであった。
のおこの時、時代は徳川家の時代に入っており、亀井家も徳川家に従い2代藩主の時に鹿野城から津和野城へ加増転封となっている。
【津和野城地図】
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