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吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)のお城や領地や石高は?
江戸中期、赤穂浪士・47士・忠臣蔵と様々なの呼び名で有名な刃傷事件、そして仇討事件の中心人物「吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)」のことはあまり知られていない。
【吉良上野介義央の関連記事】
■ 赤穂浪士のお城「赤穂城」
https://www.jp-history.info/castle/947.html
■ 仇討時の吉良上野介義央(きらこうずけのすけ)の屋敷跡は?
https://www.jp-history.info/historic-sites-and-statue/9232.html
■ 浅野内匠頭以下赤穂浪士47名が眠る東京都港区の泉岳寺
https://www.jp-history.info/picture/585.html
良くある質問の中に、吉良上野介の領地はどこだったのか?そして、石高はどのくらいだったのか?という質問があります。
もともと上野介の吉良家は「三河吉良家」の出で、領地は「三河国幡豆郡吉良荘(現:愛知県西尾市)」にあり、その石高は3000石だったと言われている。
※こちらは吉良上野介の領地と伝わる現在の吉良町付近のマップです。
↓↓
【幡豆郡吉良荘(現:愛知県西尾市吉良町付近)地図】
吉良上野介義央が討たれた際の江戸屋敷跡ですが、
現在では陣屋跡らしきものも、館跡らしきものもなく、東京の江戸屋敷跡が残っているだけである。
【吉良邸跡(本所松坂公園)地図】
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