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関ヶ原の戦いの戦闘に参加しなくても出世した男 山内一豊
生きるか死ぬかの激しい戦国時代のさなか、実際に「関ヶ原の戦い」の戦闘に加わらなくても大いに出世した男がいた。それが土佐一国の城主となった山内一豊だ。
一豊がどのように出世をしたのか、その一部をご紹介させて頂きます。慶長五年(1600年)六月から始まった会津征伐(上杉征伐)は、上方での石田三成挙兵の報を聞いた徳川家康が七月二十五日の『小山評定』で中断を決定する。
家康は三成との戦いのため西へ転進した。この時行われた『小山評定』こそが山内一豊出世の糸口となった。まず、一豊は三成挙兵と同時に西軍(反家康軍)から届いた手紙を封を切らずに家康へ見せたと言われている。※これは妻「千代」の入れ知恵だったとも言われている。
※小山評定跡地
次に「福島正則」が家康へ味方する旨、公言したのに続き、一豊は自分の城「掛川城」を家康に献上する旨申し出た。この申し出を機に、評定に参加していた諸将は我よ我よと家康に味方する旨申し出たという。※当時、一豊は掛川6万石を領していた。
※山内一豊が関ヶ原の戦い当時城主だった掛川城
その後、関ヶ原の戦いでの山内一豊の戦功は芳しくない。主に後方支援の担当だった。それにも関わらず一豊は家康から土佐一国(現:高知県)を褒美として賜ることになる。家康にしても織田信長にしても、戦場での一番槍よりも情報戦に役立つ者を過大に評価する傾向があった。これは、死傷者を出すことなく、戦をすることなく勝利をつかむ実に合理的な方法だったからであろうか。
一豊にとって、この『小山評定』こそが一世一代の大芝居だったのかもしれない。先を読む力、人の心を掴む力、これこそが一豊にとっては最大の武器だったのかもしれません。なお、前述しましたが、手紙の封を切らずに家康に差しだしたこと、掛川の城ごと家康に差し出すと提案したこと、この逸話は陰で夫を支え続けた妻「千代」の入れ知恵とも言われているようです。
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※山内一豊が関ヶ原の戦い後に城主となった高知城
【小山評定跡・場所・アクセス】
栃木県小山市下国府塚 小山評定跡
【城地図】
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