【藩名】
飫肥藩
【説明】
慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」では「伊東祐兵」が大坂で病を得ていた為、成り行きで西軍につくも、密かに「黒田如水」を通じて東軍に味方をし、嫡男「祐慶」を下向させて宮崎城を攻撃した。そして、元和3年(1617年)、2代将軍「徳川秀忠」より飫肥藩5万7千石の所領安堵の朱印状を受けた。
11代藩主「祐民」は享和元年(1801年)、学問所を設け、これが天保元年(1830年)藩校「振徳堂」となった。幕末の飫肥藩は極度の財政難に陥り、嘉永4年(1851年)には藩士の家禄を1/3に減じ、安政4年(1857年)には倹約令を出すほどだった。
戊辰戦争が勃発すると薩摩藩に従って新政府側に与し二条城と甲府城の守備を務めた。明治4年(1871年)、廃藩置県により飫肥県となった。後、都城県、宮崎県、鹿児島県を経て再置県(分県)された宮崎県に編入された。
なお、外務大臣となり「ポーツマス条約締結」を行った「小村寿太郎」は飫肥藩の出身である。
【場所・アクセス・地図】
〒889-2535 宮崎県日南市飫肥9丁目1
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