【藩名】
人吉藩
【説明】
天正15年(1587年)、「豊臣秀吉」の「九州征伐」の際、相良家老臣の「深水長智」は大友氏・島津氏の間に挟まれた小領主の苦悩を秀吉に訴えた。この長智の奔走により当主の「相良頼房(初代藩主・長毎)」は人吉の領土を安堵された。
江戸時期を通じて相良氏がこの地を統治し続けた。幕末の文久2年(1862年)には人吉城下は「寅助火事」と呼ばれる大火に見舞われ、財政は大きな痛手を被った。
人吉藩では西洋式軍隊の導入の必要性を感じ、「松本了一郎」を起用してオランダ式軍制改革に乗り出した。了一郎の一派は佐幕・洋式派と呼ばれた。一方、江戸時代初期からの伝統である山鹿流軍制を守ろうとする家老「新宮行蔵」らは勤王派であった。
こうした軍制と政治の対立があったが、文久2年(1862年)2月7日夜に人吉藩の武器庫が焼失したことを機に、洋式派が優勢となり、薩摩藩から5000両を借用するなどしてオランダ式軍制への改革が推進された。
ところが慶応元年(1865年)、了一郎が「頼基」を廃して「頼紹」を擁立しようとする陰謀があるという噂が流れ出す。この真偽は定かではないが、これに反発した勤王派は9月25日に了一郎らを襲撃し、佐幕・洋式派14人を上意討ちにし、勤王派が主導権を掌握した。
その後、山鹿流、オランダ式とも廃止され、薩摩藩よりイギリス式軍制が導入された。この一連の騒動により藩内改革が遅れ、慶応4年(1868年)の戊辰戦争でも、薩摩藩と協力して会津藩攻撃に加わる程度にとどまった。
明治4年(1871年)に廃藩置県により人吉県となったのち、八代県、白川県を経て熊本県に編入された。明治2年(1869年)相良家は華族に列し、明治17年(1884年)子爵となった。
【場所・アクセス・地図】
〒868-0051 熊本県人吉市麓町38
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。