福江藩(五島藩)/五島家1万5千石:五島盛徳 上洛要請により上京し新政府軍に従った五島藩【幕末維新写真館】

武蔵松山城/アクセス・場所・地図河越城の落城により扇谷上杉朝定が本城にした武蔵松山城【お城特集 日本の歴史】

【藩名】
福江藩(五島藩)

【説明】
江戸時代初期の慶長8年(1603年)に、初代藩主「五島玄雅(五島純玄の嗣子)」が「徳川家康」に謁し、1万5千余石の所領を認める朱印状を下賜されたことに福江藩が創設される。

福江藩(五島藩)/場所・アクセス・地図 五島家1万5千石:五島盛徳 上洛要請により上京し新政府軍に従った五島藩【幕末維新写真館】

嘉永2年(1849年)、幕府より築城の許可を富江藩主「五島盛貫」が受領し、第10代藩主「五島盛成」が着工した。文久3年(1863年)、第11代五島藩主「五島盛徳」によって、日本で最も新しい城として石田城が竣工した。

幕末に入ると当初は佐幕的な藩であったが、次第に尊王討幕に傾き、慶応3年(1867年)10月には新政府から上京の命令を受けると、慶応4年(1868年)に上京して新政府に忠誠を誓った。このとき、新政府より海防強化のために分与していた富江領3000石の併合を許されたが、富江の領民による反対一揆が起きてこの時は実現しなかった。

福江藩(五島藩)/場所・アクセス・地図 五島家1万5千石:五島盛徳 上洛要請により上京し新政府軍に従った五島藩【幕末維新写真館】

明治4年(1871年)、廃藩置県により福江県となり、その後、長崎県に編入された。五島盛徳は明治17年(1884年)に子爵となった。

【場所・アクセス・地図】
〒853-0018 長崎県五島市池田町1-4










関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA


ページ上部へ戻る