【藩名】
大村藩
【説明】
第12代当主「大村純忠」は、天正15年(1587年)の「豊臣秀吉」の九州平定に長子「大村喜前」を従軍させ、戦後の九州論功行賞で領地を安堵された。喜前は「関ヶ原の戦い」では東軍に属し徳川家康から本領を安堵され初代藩主となる。
江戸期を通じて大村氏がこの地を統治し続けた。幕末最後の藩主である第12代藩主「大村純熈」の時代には藩論が佐幕と尊皇で大きく割れた。尊皇派では「渡邊昇」らを中心とする勢力が台頭した。
文久2年(1862年)、純熈が長崎惣奉行となると佐幕派が台頭し、尊皇派はこれに対し改革派同盟(大村三十七士)を結成した。純熈は藩内に文武や学問を奨励し、外交では文久2年(1862年)には平戸藩と同盟を結んでいる。元治元年(1864年)、純熈の長崎惣奉行辞任により今度は尊皇派が台頭した。慶応3年(1867年)、改革派同盟の盟主である「松林飯山」が暗殺され「針尾九左衛門」も重症を負った。
藩論が一気に尊王倒幕へと統一されると、在郷家臣団を含む倒幕軍が結成された。以後、薩摩藩・長州藩と共に倒幕の中心藩の一つとして活躍し、戊辰戦争では東北地方にまで出兵した。特に「鳥羽・伏見の戦い」の直前には近江国大津を固めるために大村藩兵50名が少数ながら真っ先に大津に兵を派遣し、幕府側の京都援軍の侵攻を阻むことになった。この功績により、明治2年(1869年)6月には賞典禄3万石を与えられ版籍奉還により大村藩知事に任じられた。
明治4年(1871年)、廃藩置県により大村県となったのち、長崎県に編入された。
【場所・アクセス・地図】
〒856-0834 長崎県大村市玖島1-34
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