【藩名】
柳河藩
【説明】
柳河を中心とする下筑後地方は、鎌倉時代から戦国時代末期まで蒲池氏の領地であり、戦国時代に入ると蒲池氏を滅ぼした龍造寺氏が支配するようになった。「豊臣秀吉」が九州を平定すると大友氏から独立した「立花宗茂」が柳川城主として13万2千石を領した。しかし、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で宗茂は「石田三成」率いる西軍に与したため改易除封となった。同年、三河国岡崎城主「田中吉政」が、石田三成を捕らえた功により筑後一国32万5千石を与えられ柳川城に入封した。
元和6年(1620年)、2代藩主「田中忠政」が病没すると田中家は無嗣断絶により改易となった。その後、旧田中氏の領地は分割され、陸奥国棚倉藩3万石に減封されていた「立花宗茂」が加増を受けて10万9千石で柳川城主に返り咲いた。
嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航すると柳川藩は深川沿岸の警備を任された。同年7月、ロシア船が長崎に到着すると、今度は長崎の守備を命じられ、その後も上総国沿岸などの守備を担当した。その後は藩政改革を行ない、鑑寛が財政再建と軍備増強を主軸とした改革を断行し産業奨励のために物産会所を設置する。
第一次・第二次長州征伐では幕府方として参戦している。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に与し、会津若松まで転戦した。明治2年(1869年)戊辰戦争での軍功により明治政府より賞典禄5千石を与えられた。明治4年(1871年)、廃藩置県により柳川県となったのち、三潴県を経て福岡県に編入された。
【場所・アクセス・地図】
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