【藩名】
久留米藩
【説明】
元和6年(1620年)、丹波国福知山藩8万石の大名であった「有馬豊氏」は、13万石の加増を受け久留米21万石の領主として入封した。大幅な加増は「大坂の陣」の功績とされている。久留米は江戸期を通じて有馬氏が統治し続けた。
第11代藩主「有馬頼咸(慶頼)」のもとで久留米藩は幕末期を迎える。藩政改革を巡る対立や「天保学連」の抗争では激しい権力抗争が行われた。嘉永5年(1852年)に藩内の尊王攘夷派「真木保臣(真木和泉)が指導する外同志グループ」が失脚し、真木和泉が蟄居処分を受けるなど尊王攘夷派が弾圧された。
それでも「真木和泉」や長州藩とともに「禁門の変」を戦い、会津、薩摩藩を主力にした幕府軍に敗れた。真木は山崎天王山にまで逃れて自刃した。一方、久留米藩の藩論は佐幕・公武合体派の両線をとり、筑後川河口部に若津港(大川市)を整備して「雄飛丸」などの洋式船を買い入れ、諸藩でも有数の海軍を創設していた。しかし、慶応4年(1868年)には「大政奉還」を受ける形で尊王攘夷派が復権し佐幕派の首脳を排除粛清した。
明治元年(1868年)1月には参政の「不破正寛」が小河真文(吉右衛門)ら尊王攘夷派に暗殺され、同年2月には尊王攘夷派の「水野正名(稲次正訓の兄)」が参政として政権を委任されることとなった。これにともなって佐幕派が捕えられ、有馬昌長らは幽閉、今井栄ら10名は切腹させられた。開化政策を評価する立場から「明治二年殉難十志士」として顕彰される。
久留米藩は「応変隊」を組織し、戊辰戦争では新政府軍に加わり出兵している。明治2年(1869年)には版籍奉還により頼咸は久留米藩知事に任命され、水野正名が大参事となった。
明治3年(1870年)9月、長州藩で奇兵隊の反乱(脱隊騒動)を起こして敗れた「大楽源太郎」が久留米に逃れた。明治政府の「開国和親」に不満を持っていた久留米藩尊王攘夷派政権は大楽を庇護し、大楽らによるクーデター計画に参加した(二卿事件)。このクーデター計画は明治政府に発覚し、明治4年(1871年)3月10日に東京の久留米藩邸が政府に接収された。藩知事の頼咸は弾正台の取り調べを受け謹慎が命じられた。
明治4年(1871年)7月、廃藩置県により久留米藩は廃されて久留米県となり、同年11月に三潴県に編入。明治9年(1876年) には福岡県の一部となった。
【場所・アクセス・地図】
〒830-0021 福岡県久留米市篠山町442-4
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