西条藩(紀州藩支藩)/松平家3万石:松平頼英 御親藩支藩にも関わらず早くから新政府軍に属し戊辰戦争に参戦した西条藩【幕末維新写真館】

西条藩(紀州藩支藩)/場所・アクセス・地図 松平家3万石:松平頼英 御親藩支藩にも関わらず早くから新政府軍に属し戊辰戦争に参戦した西条藩【幕末維新写真館】

【藩名】
西条藩(紀州藩支藩)

【説明】
寛文5年(1665年)、「一柳直興」は職務怠慢や失政などを理由に改易処分を受け西条藩は一時天領となった。寛文10年(1670年)、紀伊国紀州藩初代藩主「徳川頼宣」の三男「松平頼純」が紀州藩の支藩として3万石で入封する。支藩を作ることにより、紀州徳川家(紀州藩主家)の家系が絶えた場合に備えた。第2代「頼致」は紀州藩主「徳川吉宗」が将軍となったため紀州徳川家を継いだ。西条藩松平家は参勤交代を行わない定府の大名だった。

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元禄7年(1694年)には藩士の「菅野六郎左衛門」と「村上庄左衛門」が「高田馬場の決闘」を行い「堀部武庸(堀部安兵衛)」の助太刀で評判になった。藩主松平家は徳川一門の親藩でありながら、明治維新の際にはいち早く新政府に恭順の姿勢を示し官軍として「戊辰戦争」に参戦している。

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明治2年(1869年)の版籍奉還と同時に最後の藩主松平頼英は藩知事となり、明治4年(1871年)の「廃藩置県」により西条県となった。のちに松山県・石鉄県を経て愛媛県に編入された。

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【場所・アクセス・地図】
〒793-0023 愛媛県西条市明屋敷234










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