【藩名】
阿波徳島藩
【説明】
「豊臣秀吉」股肱の臣で播磨国龍野を領していた「蜂須賀正勝」は、天正13年(1585年)の「四国征伐」の後に阿波国を与えられたが、高齢を理由に嗣子の「蜂須賀家政」に家督を譲り家政が徳島藩初代藩主となった。入部当時の石高は17万5千石で、板野郡の一部が飛地となり阿波一国ではなかった。同年、家政により徳島城が築造された。
2代藩主「至鎮」は「大坂の陣」において、2代将軍「徳川秀忠」より7つもの感状を受ける働きをした。これにより淡路一国8万1千石を与えられ、合わせて25万7千石を領する大封を得た。
幕末に入ると藩主「斉裕」が徳川将軍家からの養子ということもあり、佐幕派・尊皇派に藩論が割れて収集がつかなかった。慶応4年(1868年)1月、斉裕は「鳥羽・伏見の戦い」の最中に突如死去し、その後を次男「茂韶」が継いだ。このため、藩内では大混乱をきたし、その後の「戊辰戦争」では新政府側に与して奥羽にも新式のイギリス軍備兵を送ったが、相次ぐ藩内の混乱のため少数の藩兵しか送れず苦い思いをした。
明治4年(1871年)、廃藩置県により徳島藩は徳島県となった。その後名東県を経て、一旦は高知県に編入された。この時、淡路島は兵庫県に編入された。1880年(明治13年)に徳島県として再び分離され、蜂須賀家は明治2年(1869年)の版籍奉還とともに華族に列し、明治17年(1884年)の華族令で侯爵となった。
【場所・アクセス・地図】
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