【藩名】
長府藩(長州藩支藩)
【説明】
「関ヶ原の戦い」の後に「毛利輝元」が112万石から周防・長門の2か国29万8千石に減封された際に、輝元は東の守りとして岩国に「吉川広家」を置き、西の守りとして改めて長門国豊浦郡(山口県下関市)に毛利秀元を配置し長府藩5万石を立藩した。
幕末には本家長州藩が、下関を直轄領にしようとしたため対立したが後に和解している。異国船対策にも奔走し、それまでの長府藩の政庁であった櫛崎城(長府陣屋)が海に面しているという理由で、文久4年(1863年)から勝山御殿に政庁を移した。元治元年(1864年)の下関戦争における4カ国連合艦隊との戦いにも参加している。
戊辰戦争では長州本藩とともに各地を転戦したしかし、維新後に叙爵された際には、明治維新の功績に伴わず子爵どまりであった。これは明治天皇の叔父にあたる「中山忠光」が長府藩に亡命していたときに暗殺されたことで、明治天皇が伯爵への叙爵を渋ったと言われている。
明治2年(1869年)の版籍奉還で「毛利元敏」は長府藩知事となり、この時、藩名を豊浦藩と改名する。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官されて東京へ移った。同年の岩倉使節団に同行してアメリカへ留学する。使節団同行者には岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳、佐々木高行、山田顕義、田中光顕、田中不二麿などの要人のほか、元敏のような旧大名家・公家の子弟、岩倉具綱(具視の養子)、大久保彦之進、牧野伸顕、山県伊三郎等が参加している。鍋島直大、前田利嗣、前田利同、黒田長知、鳥居忠文、大村純煕らも参加していた。
なお、廃藩置県で豊浦県となり、山口県へ併呑されている。
【場所・アクセス・地図】
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。