【藩名】
松江藩
【説明】
寛永15年(1638年)、結城秀康の三男「松平直政」が18万6000石で信濃松本藩より転封した。以後、出雲一国は越前松平家の領するところとなった。また松平家は隠岐1万4000石も預かることになった。
幕末の松江藩では、藩内にフランス人を招いて砲術や西洋医術を導入し、イギリスやフランスへの留学生派遣を積極的に行なった。さらにアメリカから軍艦「八雲丸」を導入し海軍にも力を入れた。元治元年(1864年)4月18日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に遷任する。また、慶応2年(1866年)には女学校を創設し、それ以前の文久3年(1863年)には、軍備増強を目指して隠岐において17歳から50歳の民間における男子を徴兵して農兵隊を創設した。
慶応2年(1866年)に「第二次長州征伐」が起こると、藩主「松平定安」は長州藩に敗れて国を追われた石見浜田藩主「松平武聰」を保護している。その後、長州藩の軍勢が出雲国境にまで迫ってきたため、慶応3年(1867年)に幕府に無断で長州藩と単独講和せざるを得なくなった。
その後も松江藩はご親藩ということもあり、政治姿勢が曖昧で、大政奉還・王政復古後も意思表明を鮮明にしなかったため新政府の不信を買った。結局は新政府に恭順することとなり、慶応4年(1868年)に始まった「戊辰戦争」では京都の守備についた。この時、奥羽戦争へ従うため北上していた軍艦「八雲丸」が、能登沖において座礁沈没してしまった。
同年、隠岐を治めていた松江藩の代官が島民の蜂起により放逐されるという隠岐騒動が起った。代官放逐後、隠岐では自治政府が成立、一旦は松江藩に奪い返されたものの、鳥取藩と新政府の介入により再び自治政府が開かれ、以後は鳥取藩の預かりとなった。明治2年2月25日(1869年4月6日)には廃藩置県よりも2年早く隠岐県が誕生している。
明治2年(1869年)6月17日、定安は版籍奉還にて松江藩知事となり、明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で免官された。松江藩は明治4年(1871年)の廃藩置県により松江県となり、その後島根県に編入された。松江松平氏は、明治17年(1884年)の華族令で伯爵に叙爵されている。支藩としては、広瀬藩と母里藩、また一時存在した松江新田藩がある。
【場所・アクセス・地図】
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