【藩名】
鳥取藩
【説明】
慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」の後、「池田恒興」の三男(嫡男輝政の弟)の「池田長吉」が6万石で入封し鳥取藩が立藩した。しかし、元和元年(1615年)嗣子「長幸」の代に備中松山藩に転封となった。同年播磨国姫路藩より、輝政の子「池田利隆」の嫡男で池田宗家「池田光政」が32万石を与えられて入封した。
鳥取池田家は池田本家(岡山藩)の分家筋であったが、輝政と徳川家康の二女「督姫」の間に生まれた忠雄の家系であることから岡山宗家から独立した国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され親藩に準ずる家格を与えられた。これにより池田家の分家筋が因幡・伯耆国32万5000石を治めることとなった。
因幡国内に藩庁が置かれたため、伯耆国内では「米子城」に城代家老として荒尾氏を置き委任統治を行わせた。また、因幡国内には支藩として鹿奴藩と若桜藩を置いた。幕末最後の藩主で第12代藩主「池田慶徳」は15代将軍「徳川慶喜」の兄であったため、佐幕派・尊王派という中立的な立場をとった。
藩内でも尊王派と親幕派の対立が激しく、文久3年(1863年)には京都本圀寺で尊王派藩士による親幕派重臣の暗殺事件(本圀寺事件)が発生した。翌年の「禁門の変」では元々親しい関係にあった長州藩に同調する動きが一部にあったが、長州藩が敗戦し朝敵になると、一旦はこれと距離を置くようになった。
明治元年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」や「戊辰戦争」では新政府軍につき、志願農兵隊山国隊などを率いて各地を転戦した。明治政府に登用された鳥取藩士は、「河田左久馬」「北垣晋太郎」「原六郎」「松田道之」らがいる。明治4年(1871年)廃藩置県により鳥取藩は鳥取県となった。
【場所・アクセス・地図】
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