【藩名】
淡路洲本藩
【説明】
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」においては、「脇坂安治」は石田三成率いる西軍に与したが、早くから「藤堂高虎」と内通しており、「小早川秀秋」が寝返ったのに乗じて東軍に寝返り、「大谷吉継」隊を壊滅に追い込んだ。その戦功により本領を安堵された。慶長14年(1609年)、安治は伊予大洲藩に移され代わって淡路は「藤堂高虎」の属領となった。
その翌年、播磨姫路藩主である「池田輝政」に淡路一国が加増され、淡路は姫路藩の属領となる。慶長18年(1613年)1月に輝政が死去すると、淡路は輝政の三男「忠雄」に分与され再び洲本藩が立藩された。元和元年(1615年)、忠雄は岡山藩主で早世した兄「池田忠継」の後を継いで岡山藩主となったため、洲本藩は廃藩となる。淡路はその後、「大坂の陣」で軍功を挙げた「蜂須賀至鎮」の阿波藩領となり、洲本には阿波藩が派遣した城代稲田氏が置かれることとなった。
幕末の徳島藩は佐幕であったのに対して、淡路稲田氏は尊皇攘夷派であった為、早々に新政府軍に帰順した。慶応4年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」では日の御門を守衛し、摂津国西宮への出兵や高松藩の征討、有栖川宮熾仁親王の護衛などの任を務めた。しかし、これらの出兵は藩主家の徳島藩の許可を得たものでなく、本藩との間に一層の対立を深めることになる。
明治維新後、徳島藩内の内乱である「庚午事変(稲田騒動)」を契機として、明治3年(1870年)5月には兵庫県となり、10月には新政府より北海道静内郡と色丹島を賜りその開拓を命じられた。結局幕末の稲田家は徳島藩からの独立をすることは出来なかった。
【場所・アクセス・地図】
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