【藩名】
明石藩
【説明】
江戸時代播磨一国を支配する姫路藩は池田氏の所領であった。その後池田氏は岡山や鳥取へ移封となり、寛永10年(1633年)、松平(戸田)庸直が7万石で入封した。寛永16年(1639年)には「大久保忠職」が7万石で入封したが、慶安4年(1649年)に肥前国唐津藩へ転封となった。同年、丹波国篠山藩より松平(藤井)忠国が7万石で入封する。
そして嗣子「信之」の時代に弟「信重」に5千石を分与したため、所領は6万5千石となった。延宝7年(1679年)、信之は大和国郡山藩に転封となった。なお、信之は名君の誉れ高く新田開発を進めた。さらに信之は郡山転封後は老中となっている。変わって大和郡山から交代で「本多政利」が6万石で入封するが、過酷な政策を強いた罪により、天和2年(1682年)に陸奥国岩瀬藩1万石に減封の上、転封となった。
同年(天和2年)、越前国大野藩より「松平直明」が6万石にて入封し、やっと藩主家が定着した。8代藩主「斉宜」は11代将軍「徳川家斉」の二十五男で、この時2万石の加増を受け、8万石(10万石格)となった。しかし、将軍家の子息を迎えることで莫大な費用を要し、財政難に一層の拍車がかかった。幕末には御家門の立場上佐幕派となり、「鳥羽・伏見の戦い」でも幕府方として参戦した。
その後、ほどなく新政府軍に恭順して家名を存続させた。明治4年(1871年)、廃藩置県により明石県となり、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入されている。
【場所・アクセス・地図】
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