【藩名】
姫路藩
【説明】
幕末には藩主「酒井忠績」が大老となり勤王派の制圧に力を振るったほどなく蟄居した。弟で次の藩主になった「酒井忠惇」は老中となるが、「鳥羽・伏見の戦い」で「徳川慶喜」に随行して大坂退去にも同道したので「戊辰戦争」では姫路藩は朝敵の名を受け会津藩、桑名藩と並び新政府軍の討伐対象とされた。
慶応4年(1868年)、藩主不在の中、在国の家臣は1月17日に無血開城して姫路城は岡山藩に占領されるが、3月7日になって藩主忠惇の官位剥奪と入京禁止が命じられ、会津藩・桑名藩と同様に慶喜の共犯とみなされた。その後、慶喜が江戸城を無血開城して恭順の意を表明したため、江戸藩邸にいた忠績・忠惇もそれに従って新政府軍に降伏した。
ところが、同年5月5日になって忠績が江戸の大総督府に対して酒井家は徳川家の家臣であり天皇家の臣として主家と相並ぶことを拒絶して所領没収を望む嘆願書を提出してしまう。姫路藩は5月20日に忠惇が蟄居して分家上野伊勢崎藩酒井家から養子に迎えた「酒井忠邦」に藩主の地位を譲り、軍資金として15万両を新政府に献上することで藩存続を許されるものの、佐幕派として立場が明確となったことでその対応に追われた。
このため、姫路藩では佐幕派の粛清に乗り出し、自害4名・永牢7名など多数の家臣が処分された。そして9月14日に忠績が実弟「忠恕」に預けられ、忠惇も静岡藩に身柄を移された後、明治2年9月28日に赦免されて忠恕に預けられた。姫路藩は明治元年(1868年)11月に「河合屏山」の進言で諸藩に先駆けて版籍奉還の建言書を提出する。
廃藩置県が実施されると姫路藩は姫路県となり、飾磨地方の諸県と合併して飾磨県となるが、ほどなく飾磨県は廃止されて兵庫県に合併された。
【場所・アクセス・地図】
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