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【藩名】
龍野藩
【説明】
寛文12年(1672年)、信濃国飯田藩より「脇坂安政」が5万3千石で入封し幕府より城の再建を許され、龍野城が修築された。脇坂家は外様大名であったが、安政は老中「堀田正盛」の次男であったため、天和3年(1683年)に譜代大名となった。宝永6年(1709年)に3代「安清」が襲封した際、弟の「安利」に2千石を分与し5万1千石となり、以後これが龍野藩の石高となった。
9代藩主「安宅」は寺社奉行・京都所司代・老中と累進している。天保13年(1842年)に江戸の藩校を廃止し龍野の「文武稽古所」を藩校「敬楽館」とする教育改革を行った。幕末の龍野藩は老中を輩出したこともあり佐幕派で幕府側も龍野藩を頼りにしていた。
摂津の海防警備を務め、元治元年(1864年)の第1次長州征伐や慶応2年(1866年)の第2次長州征伐にも幕府軍の一員として参加した。しかし戦いには消極的だったようで、第2次長州征伐では藩主の病気を理由に出兵を辞退している。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に恭順して、姫路藩の攻撃や北越戦争や会津戦争にも参加した。
明治4年(1871年)廃藩置県により龍野県となる。その後、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入された。藩主家は明治2年に華族に列し明治17年(1884年)に子爵となった。
【龍野城・場所・アクセス】
〒679-4179 兵庫県たつの市龍野町上霞城128-1
【龍野城地図】
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