【藩名】
安志藩
【説明】
享保元年(1716年)中津藩第5代藩主「小笠原長邕」が5歳で夭逝したが、弟の長興が安志に1万石で立藩を認められた。藩祖「長興」は生来から病弱だったため、わずか19歳で隠居する。しかし継嗣がいなかったため、小倉藩第3代藩主「小笠原忠基」の次男「長逵」を第2代藩主に迎えた。このため以後は、小倉藩の支藩の如く扱われるようになった。なお、小笠原氏はかつて信濃国守護だったため、初代藩主以外の藩主は代々「信濃守」を名乗った。
幕末には本家とともに元治元年(1864年)の第1次長州征伐や、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐に参加している。第2次長州征伐では、小笠原忠忱、小笠原貞正らと長州藩と戦うものの敗れて肥後にまで撤退した。慶応4年(1868年)1月17日、新政府の上洛の要請に対し病気のために重臣を上洛させることを願い、受け入れられた。
明治4年(1871年)廃藩置県により安志県となった。その後、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入された。藩主家は華族に列し、明治17年(1884年)に子爵となった。
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