【藩名】
山崎藩
【説明】
寛永17年(1640年)和泉国岸和田藩より「松平康映」が5万石で入封するが、慶安2年(1649年)に石見国浜田藩へ転封となり、その後はいったん天領となった。しかし、3か月後には備前国児島藩より「池田恒元」が3万石で入封する。その後3代藩主「恒行」が延宝6年(1678年)に夭折し末期養子もなかったため改易となった。
翌延宝7年(1679年)、大和国郡山藩より本多忠英が1万石で入封し、以後明治維新まで本多氏がこの地を治めた。忠英の長男「忠良」は、本家筋にあたる越後国村上藩主「本多忠孝」が早世すると養子としてこれを相続したため、次弟の忠方が2代藩主となったが、忠方は早世したため三男の「忠辰」がこれを継いだ。
幕末の藩主8代「忠鄰」は藩校「思斎館」を開き、藩財政再建にも尽力した。また大砲の鋳造や海防に尽力し、第一次長州征伐では大きな戦功を挙げた。しかし第二次長州征伐では藩の軍費不足で出陣できなかった。慶応4年(1868年)に勃発した「戊辰戦争」では、幕府側に与しようとしたが結局は新政府軍についた。
明治4年(1871年)廃藩置県により山崎県となった。その後、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入された。藩主家は明治2年の版籍奉還とともに華族に列し、明治17年(1884年)の華族令で子爵となった。
【場所・アクセス・地図】
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。