【藩名】
丹後田辺藩
【説明】
寛文8年(1668年)、京極家に代わり「牧野親成」が摂津国より3万5000石で入城する。田辺牧野家の藩祖は「牧野康成」である。康成は初名を正勝、通称を半右衛門といい、その父は牛久保牧野氏寄騎の「牧野定成(八大夫)」とされる。
天正18年(1590年)に「徳川家康」が豊臣秀吉から関東を与えられて移封になると「牧野康成」は武蔵国足立郡石戸に5千石を与えらた。康成の三男の信成は慶長4年(1599年)父の遺跡を継ぎ、慶長11年(1606年)から大番頭、小姓組番頭、書院番頭などを歴任した。寛永10年(1633年)の加増で大名に列し、武蔵国石戸藩1万1千石として立藩する。
正保元年(1644年)の加増転封で関宿城主となり、下総国関宿藩に入封する。信成の子「親成」も加増され、寛文8年(1660年)に封地を移されて丹後田辺藩3万5千万石の藩主になった。
以後、幕末まで牧野氏がこの地を統治して明治維新を迎えた。幕末の藩主「牧野誠成」は、元治元年(1864年)3月に二条城警備、7月の「禁門の変」では幕府方として参加して御所の警備を務めた。8月の第1次「長州征伐」では第14代将軍「徳川家茂」の警護を務めている。これらの功績から、9月10日には奏者番に任じられた。
慶応2年(1866年)の第2次「長州征伐」では、丹後近海の海防などを理由に本国にて待機とされた。慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」では新政府に属して旧幕府軍と戦った。明治2年(1869年)の「版籍奉還」に際して舞鶴藩と改称された。明治4年(1871年)7月の「廃藩置県」によって舞鶴県となったが、まもなく京都府に編入されて消滅した。
【場所・アクセス・地図】
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