【藩名】
伏見藩
【説明】
関ヶ原の戦いの後、徳川家康は豊臣秀頼への牽制と畿内支配の拠点から、焼失した伏見城の再建に乗り出した。そして慶長8年(1603年)、家康は伏見城にて将軍宣下を受け江戸幕府を開いた。その後、慶長12年(1607年)に駿府城を正式に居城とするまで、家康はこの伏見城を拠点としている。
家康が駿府に移った後、伏見には家康の異父弟の「松平定勝」が遠江掛川藩より5万石で入封し伏見藩が立藩された。定勝は京都所司代の「板倉勝重」と共に京都守備に貢献したことから、城米2万石を下賜された。また、「大坂の陣」においても伏見城は徳川方の重要拠点となった。
豊臣秀頼滅亡後の元和3年(1617年)、定勝は伊勢桑名藩6万石へ加増移封され、代わって摂津高槻藩4万石の「内藤信正」が1万石加増の上で入封した。しかし伏見城は豊臣氏の滅亡後は重要拠点としてみなされなくなっていた。
信正が元和5年(1619年)7月に大坂城代として転出すると伏見藩は廃藩となり、伏見城は伏見奉行所の管轄化に置かれることとなった。そして元和9年(1623年)に「徳川家光」が伏見城にて将軍宣下を受けた後、一国一城令に基づいて廃城となった。
【場所・アクセス・地図】
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