淀藩/稲葉家10万2千石:稲葉正邦 鳥羽・伏見の戦いでは敗戦した旧幕府軍を収容しなかった淀藩【幕末維新写真館】

淀藩/場所・アクセス・地図 稲葉家10万2千石:稲葉正邦 鳥羽・伏見の戦いでは敗戦した旧幕府軍を収容しなかった淀藩【幕末維新写真館】

【藩名】
淀藩

【説明】
淀藩の藩主家稲葉氏は10万2,000石という大領ではあったが、その所領は山城のほかに摂津・河内・近江・下総・越後などの多方面に分散しており、山城にあった所領は2万石にも満たなかったと伝わる。このため、藩政においても財政は苦しかった。

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第7代藩主「稲葉正諶」は、天明4年(1784年)に越後の所領を和泉や近江に移したが、これにより所領10万2,000石は7カ国に分散することとなり、全くの逆効果を招いた。

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幕末の淀藩主「稲葉正邦」は幕末期の動乱の中で老中を2度務め、「板倉勝静」や「小笠原長行」らと共に幕府に貢献した人物である。しかし正邦の江戸詰め中に「戊辰戦争」の「鳥羽・伏見の戦い」が勃発し、旧幕府軍が朝廷によって朝敵とされたため、淀城代は敗走する旧幕府軍を城内に入れなかった。これが「鳥羽・伏見の戦い」における旧幕府軍の敗北の一因とも言われている。

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正邦は旧幕府瓦解時の老中であったため、新政府の命令で同年3月に謹慎処分となったが、閏4月には許されて京都警備を任されている。翌年の「版籍奉還」により淀藩知事となり、1871年(明治4年)の「廃藩置県」で免官された。淀藩は廃藩となり、その所領は各近辺の府県に組み込まれることとなった。

【場所・アクセス・地図】






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