【藩名】
大津藩
【説明】
文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の家臣である「京極高次」が6万石で入封した。高次は「浅井長政」に仕えていたが、天正元年(1573年)に「織田信長」によって浅井氏が滅亡したため、信長の家臣となっていた。天正10年(1582年)、「本能寺の変」においては信長に反旗を翻した「明智光秀」に与したために光秀の死後に秀吉の怒りを買って追放された。
その後、かつて「武田元明」の妻であり、高次にとっては妹にあたる松の丸殿が秀吉の側室となると罪を許されて秀吉の家臣となった。慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では当初は西軍に与していたが「石田三成」ら西軍の動向を東軍に密告していた。しかし高次は9月15日の本戦直前になって東軍に旗幟を鮮明にして「大津城」に籠城する。
高次の正室は常高院(於初)で、徳川秀忠の正室「於江」の姉だったこともあり、秀吉の側室になった姉の淀殿よりも於江と仲が良かった。東軍方となった大津城は「立花宗茂」や「末次元康」の猛攻を受けて開城を余儀なくされたが、この大津城攻防戦のため、西軍の貴重な戦力であった宗茂の軍勢は関ヶ原本戦に参加することができなかった。
大津城落城後、高次はその敗戦を恥じて高野山に上ったが、家康は宗茂を引きつけていた高次の功績を高く評価して新たに召し出し、若狭国小浜藩8万5000石に加増移封した。
関ヶ原の戦いの翌年、大津には家康譜代の家臣「戸田一西(左門)」が3万石で入封し立藩した。その翌年、家康の命令で天下普請のもと、大津城を排して新たに「膳所城」が築かれ、一西は膳所藩に移ることとなった。ここに大津藩は廃藩となった。
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