鳥羽藩/稲垣家3万石:稲垣長行 鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍として戦うもほどなく新政府に恭順した鳥羽藩【幕末維新写真館】

鳥羽藩/場所・アクセス・地図 稲垣家3万石:稲垣長行 鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍として戦うもほどなく新政府に恭順した鳥羽藩【幕末維新写真館】

【藩名】
鳥羽藩

【説明】
鳥羽藩は織田水軍の将「九鬼嘉隆」を藩祖とする藩である。慶長5年(1600年)に勃発した「関ヶ原の戦い」で嘉隆は西軍に、子の「九鬼守隆」は東軍に与して戦った。父子対立というよりはどちらが勝利しても九鬼家が存続できるように図ったものと言われている。しかし戦後守隆は父の助命を「徳川家康」に嘆願して認められていたが、それを報せる前に嘉隆は自害した。

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九鬼守隆が三田藩へ移封になると天和元年(1681年)、下総古河藩から「土井利益」が7万石で入封する。しかし元禄4年(1691年)には肥前国唐津藩へ移封となる。入れ替わりで「松平乗邑」が6万石で入封するが、これも宝永7年(1710年)に伊勢亀山藩へ移封となる。さらに入れ替わりで「板倉重治」が5万石で入るがこれも享保2年(1717年)、再び亀山へ移封となる。

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代わって山城国淀藩から「松平光慈」が7万石で入るが、これも享保10年(1725年)に信濃国松本藩へ移封し鳥羽藩では藩主家が安定しなかった。「稲垣昭賢」が下野国烏山藩から3万石で入り、ようやく藩主家が定着した。その後稲垣氏は8代にわたって鳥羽の地を支配した。

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幕末に勃発した「鳥羽・伏見の戦い」の際に藩兵が旧幕府軍として戦闘に参加し、藩主の「稲垣長行」が江戸滞在中であったため新政府軍による討伐の可能性が浮上するが、長行が謹慎し戦闘に参加した家臣も永禁錮とし、さらに新政府に軍資金1万5千両を引換に赦免された。明治4年(1871年)の廃藩置県で鳥羽藩は廃藩となって鳥羽県、さらに度会県を経て三重県に編入された。

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