【藩名】
掛川藩
【説明】
慶安元年(1648年)、「松平忠晴」が駿河国田中藩より3万石で入封したが、同年正月には丹波亀山藩に移された。代わって田中藩より北条氏重が3万石で入封したが、万治元年(1658年)に氏重は死去し嗣子がなかったため北条氏は改易となってしまう。
翌年正月28日、三河国西尾藩より「井伊直好」が3万5000石で入封するが寛文12年(1672年)正月6日に死去し、後を継いだ「井伊直武」も元禄7年(1694年)6月8日に死去。その後を継いだのは「井伊直朝」であるが、宝永2年(1705年)に直朝は発狂して参勤交代をも怠る有様となった。
幕府は井伊氏の祖先である「井伊直政」の功績を考慮して、本家の彦根藩から「井伊直矩」が養嗣子として迎えられて後を継いだ。しかし、直矩は養越後国与板藩に移封を命じられた。
代わって信濃国飯山藩より「松平忠喬」が4万石で入封するが、正徳元年(1711年)に摂津国尼崎藩へ移され、代わって武蔵国岩槻藩より「小笠原長煕」が6万石で入る。長煕は元文4年(1739年)4月21日に隠居し、後を継いだ「小笠原長庸」は延享元年(1744年)7月6日に死去。その後を継いだ「小笠原長恭」は延享3年(1746年)9月、陸奥国棚倉藩へ移封を命じられた。
代わって上野国館林藩より5万石で「太田資俊」が入封し、ようやく藩主家が安定した。以後、幕末まで太田氏が7代にわたって統治し、慶応4年(1868年)9月、最後の藩主である「太田資美」が上総国柴山藩(松尾藩)に移封となり掛川藩は廃藩となった。
その所領は家名存続を許された「徳川家達」の駿府70万石府中藩領となった。
【場所・アクセス・地図】
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