【藩名】
田野口藩(竜岡藩五稜郭)
【説明】
文久3年(1863年)、「松平乗謨」は信濃国への陣屋移転と新築許可を徳川幕府から得る。そして以降、田野口藩を名乗ることになる。西洋築城術に関心を寄せていた乗謨は、新しい陣屋を稜堡式城郭(星形要塞)にすることを計画し、元治元年(1863年)より田野口村で築城を開始した。
田野口陣屋(龍岡城)は函館五稜郭とともに日本で2つしかない星形要塞である。慶応3年(1867年)4月には城郭内の御殿が竣工したが城郭としては未完成のまま明治維新を迎えた。
藩政においてはフランス式の軍制を導入し、龍岡城内に設けた練兵場で訓練を行った。開明的だった乗謨は、慶応元年(1865年)に陸軍奉行に就任、慶応2年(1866年)には老中「陸軍総裁」に任じられ江戸幕府を支え続けた。
慶応4年(1868年)、「戊辰戦争」が勃発すると乗謨は陸軍総裁や老中を辞任し新政府軍に恭順した。その後は新政府軍に参加し、北越戦争へ藩兵を送った。この戦で戦死した藩士の墓が佐久市田口の蕃松院にある。慶応4年(1868年)5月28日に藩名が田野口藩から龍岡藩に改名されている。
明治4年(1871年)、龍岡藩は財政破綻のために新政府に廃藩を申請し、廃藩置県に先立って廃藩となる。乗謨は明治維新後に「大給恒」と改名し、日本赤十字社の前身である博愛社を創設、賞勲局総裁などを務めた。
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