小諸藩(越後国長岡藩支藩)/牧野家1万5千石:牧野康済 赤報隊と戦闘し新政府に罰せられた小諸藩【幕末維新写真館】

小諸藩(越後国長岡藩支藩)/場所・アクセス・地図 牧野家1万8千石:牧野康済 赤報隊と戦闘し新政府に罰せられた小諸藩【幕末維新写真館】

【藩名】
小諸藩(越後国長岡藩支藩)

【説明】
元禄15年(1702年)に越後国与板藩より「牧野康重」が1万5千石で入封する。慶応2年(1866年)、幕末最後の藩主となった「牧野康済」の時に「小諸騒動」が起こる。このときは本家長岡藩家老の「河井継之助」の調停によって解決している。

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慶応4年(1868年)、康済は信濃追分において「赤報隊」と戦ってこれに勝利したが、新政府に敵対したことで新政府に捕縛された。その後、岩倉具視の取りなしや碓氷峠の守備などで功績を挙げたため罪を許され、以降は新政府軍に与した。

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明治元年(1868年)11月9日、小諸藩では再び騒動が勃発し多くの忠臣や重臣が断罪された。両派の確執は長きに続き、自藩で藩の「大参事」を出すことができず、本藩の「長岡藩」から大参事を招聘した。

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藩主「牧野康済」は、明治2年、「版籍奉還」により小諸藩知事となり、翌年には小諸県知事に叙せられた。そして明治4年(1871年)7月、「廃藩置県」により小諸県となり、同年12月には長野県に吸収されたのであった。

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