【藩名】
長岡藩
【説明】
幕末時に長岡藩筆頭家老に就任した「河井継之助」は最期まで中立の立場で武装講和を望んでいた。しかし、新政府軍参謀の「岩村精一郎(土佐藩)」との間で「小千谷会談」にて河井の提案は一蹴されてしまう。年若い岩村では河井の心境を推し量れなかったと言われている。
ここにきて河井は藩論を戦守と定め、「奥羽越列藩同盟」に加わり新政府軍との戦端を開いた(北越戦争)。初戦は連勝していたが新政府軍参謀「山形有朋」の奇襲攻撃により長岡城は落城する。落城した長岡城を一度は奪還したものの、火力・兵員共に上回る新政府軍に押しに押され再び落城し、藩士や領民の多くは会津へと落ち延びた。
北越戦争の勝敗を決した要因の一つとして、新発田藩(溝口家)の裏切りがあげられる。そのため、長岡藩の新発田藩に対する怨念は薩摩藩・長州藩以上のものとなったと言われている。
降伏した長岡藩はお家再興を認められたものの、5万石を没収されて2万4,000石となり、財政的に窮乏を極めた。藩は「北越戦争」で壊滅的な被害を受けた上、食糧不足に陥ったが、大参事「小林虎三郎」や「三島億二郎」が復興に尽力した。
その後、全国的な「廃藩置県」に先立つこと1年、明治3年(1870年)に長岡藩は廃藩し柏崎県に編入された。明治6年(1873年)には柏崎県と新潟県が統合され、新潟県となる。藩主の牧野家は華族に列し、子爵を与えられた。維新前最後の藩主「牧野忠訓」の弟にあたる「牧野忠篤」は、1906年に初代長岡市長になっている。
【場所・アクセス・地図】
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