【藩名】
与板藩
【説明】
慶応4年(1868年)、「鳥羽・伏見の戦い」にて火蓋を切った戊辰戦争は、それまで政争の中心から遠かった小藩の与板藩をも巻き込んでいく。徳川宗家の「大政奉還」後、井伊家宗家の「彦根藩」が譜代大名筆頭にも関わらず「新政府軍」に藩論を転向させたことから、支藩である与板藩もそれに従った。
与板近隣の諸藩は会津藩の影響もあり、佐幕色を強めて新政府軍と戦ったが、与板藩は当初から新政府軍に就く構想を取っていた。藩主「井伊直安」は江戸藩邸にいたが急ぎ国許入りする。そして、4月に入り新政府軍の先発隊が高田藩まで進出すると直安は新政府軍総督と会見し、恭順の意を示した。
その後、新政府軍の命を受けて京都御所警備の為に上洛し、4月11日には「古屋佐久左衛門」率いる「衝鋒隊」が「今井信郎」を派遣して与板藩に1万両と兵糧米500俵を要求したが、与板藩は抵抗することなくそのほぼすべてを供出した。
北陸鎮撫使の新政府軍が天領だった出雲崎に進駐すると、与板藩はこれに呼応して出雲崎口に出兵した。5月に入ると新政府軍は混戦だった長岡藩との戦闘を打開するため信濃川を渡河し、長岡城を急襲し落城させた。奥羽越列藩同盟軍は新政府軍側の「与板城」を攻撃するために会津藩・桑名藩・上山藩兵で組織された同盟軍を与板へ進めた。
与板藩も藩兵を率いて進軍し、新政府軍に援軍を要請した。戦闘は与板手前の金ヶ崎で衝突し一斉射撃を仕掛けるが会津藩兵の応戦に遭い退却した。その後、新政府軍の援軍が到着し長州藩・須坂藩、薩摩藩・飯山・戸山・与板藩兵と、同盟軍の3倍の兵力で応戦した。しかし同盟軍の勢いは強く、これに驚いた新政府軍は与板城に火を付け、大手門・切手門以外が焼失した。このため城下は混乱に陥った。その後も与板周辺で攻防戦が続いたが、辛くも同盟軍から与板城を守り抜いた。
その後は新潟港や長岡藩が陥落し、三根山藩は降伏、与板藩は三根山藩と共に新政府軍の庄内藩攻略の最前線となった。明治2年(1869年)に「戊辰戦争」の功労を顕彰して明治政府より賞典金2000両が給与された。同年版籍奉還が行われ、藩主「井伊直安」は知藩事となり華族に列している。明治4年(1871年)7月14日の「廃藩置県」により与板県となり、同年11月20日には柏崎県に編入を経て新潟県に編入された。
【場所・アクセス・地図】
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