【藩名】
大多喜藩
【説明】
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による「小田原征伐」後、関東に入部した「徳川家康」は「徳川四天王」の一人「本多忠勝」に上総国に10万石を与えた。忠勝は当初は「万喜城」に入城したが天正19年(1591年)には居城を大多喜城に移した。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では家康本隊に属して本戦に出陣し、武功を挙げたため、忠勝は伊勢国桑名藩に移された。本家は長男「忠政」が継ぎ、大多喜には5万石で次男「忠朝」が残った。忠朝は領内の検地を実施して藩政の固めに専念したが、大坂夏の陣で戦死してしまう。
家督は甥「政朝」が継いだが、元和3年(1617年)9月、播磨国龍野藩に移封となり、代わって武蔵国鳩ヶ谷藩から「阿部正次」が3万石で入封した。元和5年(1619年)9月、正次は相模国小田原藩に移されたため大多喜藩は廃藩となった。
元和9年(1623年)10月、「青山忠俊」が「徳川家光」の勘気を被って老中を罷免され、武蔵国岩槻藩から減移封となって2万石で大多喜に入封する。しかし、寛永2年(1625年)、忠俊は改易され下総国網戸に蟄居となったため、再び大多喜藩は廃藩となった。寛永15年(1638年)4月、武蔵国岩槻藩主「阿部正次」の孫の「正能」が祖父から1万石を分与されて大多喜藩主として入封した。
阿部正能は寛文11年(1671年)5月25日、武蔵忍藩を継ぐこととなり、代わって岩槻藩主であった「阿部正春」が1万6000石で入封した。しかし、正春は元禄15年(1702年)9月7日、三河国刈谷藩に移される。入れ替わりで、徳川綱吉政権下で若年寄を務めていた「稲垣重富」が2万5000石で入るが、わずか21日間で城地が狭すぎるという理由から下野国烏山藩に移ってしまった。
続いて相模国玉縄藩から大河内長沢松平家の「松平正久」が2万石で入ったことにより、ようやく藩主家が安定した。最後の藩主「松平正質(大河内正質)」は、幕末期に老中格・若年寄・奏者番などを歴任した。明治元年(1868年)の戊辰戦争の初戦である「鳥羽・伏見の戦い」でも幕府軍の指揮を任されたが、大敗を喫して江戸へ逃れた。その後、正質は戦犯として新政府から官位と所領の没収を宣告され佐倉藩に幽閉された。
しかし、請西藩や旧幕府軍の撤兵隊や遊撃隊などの誘いに応じなかったことが評価されて、同年8月に宥免された。翌年の版籍奉還で正質は大多喜藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で大多喜藩は廃藩となり大多喜県となった。その後、木更津県を経て千葉県に編入された。
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