【藩名】
一宮藩
【説明】
戦国時代にはこの地に一宮城が存在していた。一宮城は北条氏と里見氏の勢力圏の境目にあり、しばしば支配者が変わったが、戦国時代も終盤になると、豊臣秀吉による「小田原征伐」の際に徳川家康の家臣「本多忠勝」によって攻め落とされて廃城となった。以後大多喜藩領などを経て、伊勢国八田藩加納氏の飛領となった。
加納家は代々紀州徳川家の家臣であったが、文政9年(1826年)3月、伊勢八田藩主であった「加納久儔」が陣屋を上総国長柄郡一宮本郷村の一宮城跡地へ移したことにより一宮藩が立藩した。初代藩主である「加納久儔」は天保期、軍制改革を主とした藩政改革を行なって兵団組織・農民徴兵制を施行するなど、ある程度の成功を収めた。
第2代藩主「加納久徴」は安政2年(1855年)2月5日、講武所総裁に任じられ、その後は奏者番、若年寄を歴任し、幕末に入ると公武合体運動を推進して活躍した。文久3年(1863年)11月、「真忠組の乱」が起こるとこの鎮圧で功を挙げた。
第4代藩主「加納久宜」はフランス式操練を行ったり早くから洋式軍隊の育成を行った。「鳥羽伏見の戦い」が勃発すると海路京都へ向かったが、下田付近で大時化にあい戦には間に合わなかった。旧幕府軍がこの戦で敗れると一宮藩はいち早く新政府側に与した。
このため無事に幕末の動乱期を乗り切り、明治2年(1869年)、版籍奉還では一宮藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で一宮藩は廃藩となり一宮県となった。11月には木更津県を経て千葉県に編入された。
最後の藩主となった「加納久宜(子爵)」は後に一宮町長となり、その子「加納久朗」は千葉県知事を務めている。一宮陣屋跡は大手門の模擬門が残っている。
【場所・アクセス・地図】
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