【藩名】
麻生藩
【説明】
「新庄直頼」は慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」のとき、西軍に属したため摂津国高槻の所領を没収されていたが、後に許されて「徳川家康」に召し出された慶長9年(1604年)、常陸国行方、河内、新治、真壁、那珂、下野国芳賀、都賀、河内8郡内に3万石300石余の所領を賜り麻生藩が立藩された。
第2代藩主「新庄直定」は父の遺領2万7300石余を継ぎ、弟の「新庄直房」に3000石を分与している。直定は元和2年から没するまで幕府の奏者番をつとめた。3代藩主「新庄直好」の時、1万石を常陸国新治郡に移されたが直好には継嗣が無く、「新庄直時」を養嗣子としていた。しかし、直好には万治3年(1660年)に62歳という高齢になってから実子の「新庄直矩」が誕生した。
直好は寛文2年(1662年)に死去し、3歳の幼児に後を継がせるわけにもいかず、直時がそのまま後を嗣いだ。延宝2年(1674年)、直矩が15歳に成長すると、直時から直矩に家督が譲られた。このとき、隠居した直時に藩領から鹿島郡内7000石が分与され、麻生藩は2万石余となる。ところが2年後の延宝4年(1676年)、直矩は17歳で急死してしまいさらに継嗣も無く、新庄家は江戸幕府に無断で後継者を擁立しようとしたこともあって改易された。
幕府は、7000石の旗本となっていた前藩主の直時に、新たに3000石を加増して常陸国行方、新治郡内1万石の所領を与え、麻生藩の再興を許した。慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」では麻生藩は新政府軍に恭順し、4月には水戸藩浪士(天狗党)の追討を務めている。明治2年(1869年)6月24日の「版籍奉還」により最後の藩主「新庄直敬」は麻生藩知事に任じられ、藩校「精義館」の創設や藩の職制改革に務めた。そして明治4年(1871年)7月の「廃藩置県」により藩知事を免官され麻生藩も廃藩となる。
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