【藩名】
下妻藩
【説明】
正徳2年(1712年)「井上正長」が1万石で下妻へ入封し下妻藩が立藩する。正長は美濃郡上藩主「井上正任」の三男であったが、父から3000石を分与されて交代寄合となり、「徳川家宣」が甲府藩主の時代からその家老を務め、家宣が将軍後継者となると御側衆となり3000石を加増された。
その後も順調に加増されて8000石になり、家宣が死去するとその遺命により、正長は2000石を加増されて1万石の大名として下妻藩主となった。下妻井上家は幕末期に浜松藩を領した井上家の分家にあたり、他にも上総高岡藩があり、それぞれ無事に明治維新を迎えている。
第14代藩主「井上正巳」の時に明治維新を迎え、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、はじめは幕府側に与して江戸城清水門の警備を務めた。後に新政府側に寝返ろうとしたが、旧幕府軍からの圧力を受け、一部の藩士が会津戦争で会津側に与した。新政府からそれを咎められて、改易に処されかけたが、家老が懸命に弁明し、さらに佐幕派であった今村昇らを処断したため改易を免れた。
明治2年(1869年)6月24日の「版籍奉還」で下妻藩知事となり、明治4年(1871年)7月14日の「廃藩置県」にて下妻藩は廃藩となった。その後下妻県を経て、同年11月には茨城県に編入された。
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