【藩名】
足利藩
【説明】
宝永2年(1705年)1月、将軍世子である「徳川家宣」の御側役を務めていた「戸田忠時」が1万1000石を領することとなったため、大名に列して足利藩を立藩した。歴代藩主は藩政改革を行ない大坂定番や奏者番などを務めた。
明治2年(1869年)6月の「版籍奉還」で最後の藩主「戸田忠行」は足利藩知事となる。明治4年(1871年)の「廃藩置県」で足利藩は廃藩となり足利県となった。そして同年11月14日に栃木県に編入された。
幕末時の足利藩に目立った動きや活動はみられない。譜代大名ではあったが小藩だったことや「無城大名」だったことも活動が制限された理由の一つであろう。しかし、「天狗党の乱」には足利藩からも参加者が出たり、西郷隆盛の意をくんだ一隊が栃木で挙兵したが館林藩、壬生藩と共にこれを鎮圧している
徳川慶喜が「大政奉還」をするまでは極めて幕府よりの戸田氏だったが、大政奉還後は態度を勤皇へと変え沼田藩付近で勃発した会津藩兵との戦いなどにも新政府側として参戦している。このような経緯を得て減封されることも処罰されることもなく、激動の幕末時代を乗り切った。
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