【藩名】
喜連川藩
【説明】
喜連川藩主は「足利国朝(正室は古河公方 足利氏姫)」を藩祖とする足利一門である。喜連川氏は「足利尊氏」の次男「足利基氏」の後裔であり、名族足利氏のなかで唯一「明治維新」まで存続した大名家である。(分家としては細川氏も該当する)
江戸幕府や歴代将軍も喜連川家を重んじ、享保年間には諸侯扱いとなり10万石という国主大名並の家格となった。しかし石高が大幅に加増されることはなく、喜連川家は江戸期を通じて表高・実高が1万石に満たなかった唯一の諸侯とされている。
江戸時代を通じて喜連川氏の統治が続き、幕末の「戊辰戦争」では明治元年(1868年)5月、新政府に対し重臣を上洛させ恭順を申し出た。同年7月には新政府軍に対し兵糧を献上している。その後、肥前藩兵とともに白河に藩兵を派遣し白河小峰城の攻防戦に加わった。
明治維新後の明治3年(1870年)、廃藩置県に先立って喜連川藩は藩籍を新政府に奉還した。そして日光県に編入され喜連川藩は廃藩となる。翌明治4年(1871年)には日光県の合併に伴い、宇都宮県の一部となった。この頃、喜連川氏は足利姓に復し華族に列し子爵に叙せられた。
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