【藩名】
米沢藩
【説明】
第12代藩主「上杉斉憲」の時代に、米沢藩は幕末を迎える。斉憲は佐幕派として文久3年(1863年)に上洛して京都警衛を果たし、翌年からは嗣子「上杉茂憲」が上洛して2年間京都警衛を果たしたため、その功績により慶応2年9月(1866年10月)に屋代郷3万7248石を幕府より与えられ、米沢藩の知行高は19万石近くまで増加した。
徳川慶喜による「大政奉還」が行われると、藩論は佐幕派と尊皇派に分かれたが、藩主斉憲は保科正之の旧恩があるとして幕府に味方した。慶応4年(1872年)4月に江戸城の無血開城が成り、戊辰戦争がいよいよ東山道に波及し始めると、米沢藩はかつての保科正之への恩義もあることから新政府軍と会津藩の間に立って仲介に努めたが、その行動はかえって官軍から疑いの目を向けられる結果を招いた。
これを察知した米沢藩は、新政府軍が会津討伐が終了したあとも東北の佐幕派諸藩を討つと考え、自ら「奥羽越列藩同盟」の盟主となり「仙台藩」や「会津藩」とともに新政府軍に敵対した。
仙台藩が奥州街道(常磐方面)を担当したのに対し、米沢藩は越後方面を担当し新政府軍と交戦するも苦戦を強いられた。新政府軍に羽越の国境の大里峠まで迫られたところで、同年8月18日新政府軍から思いがけない吉報が米沢藩にもたらされた。
東山道先鋒総督府は土佐藩の「迅衝隊」を中心に編成された部隊だったが、その幹部である「谷干城」「片岡健吉」「伴権太夫」らは連名で米沢藩に恭順を薦める内容の書状を書き、これを土佐藩主「山内豊資」の三女で米沢藩主「上杉茂憲」の正室となっていた貞姫を通じて米沢藩へと送付した。
これを受けて米沢藩は藩論を恭順にまとめて降伏した。その後は新政府軍の先鋒となりと庄内藩討伐にも兵を出した。会津藩に対しては恭順することを諭し、ついに最後の牙城会津藩も無条件降伏を受け入れた。
米沢藩は戦後の処分で、明治元年(1868年)12月に4万石を減封されて14万7000石となったが会津藩や山形藩に比べて軽い処罰であった。また藩主「斉憲」は隠居となり嫡子の「上杉茂憲」が家督を継いだ。
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