- 全藩, 北海道・東北地方
- 17万石, アクセス, 写真, 地図, 場所, 大泉藩, 奥羽越列藩同盟, 幕末, 庄内, 庄内藩, 新政府軍, 維新, 藩, 連戦連勝, 酒井家, 酒井忠篤, 鶴岡藩
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【藩名】
庄内藩(鶴岡藩・大泉藩)
【説明】
慶応3年12月(1868年1月)、「上山藩」などとともに江戸薩摩藩邸への討ち入りを命ぜられて実行する。戊辰戦争の口火を切るとともに、この焼き打ちが新政府軍による徳川家武力討伐の口実や、奥羽鎮撫総督による庄内藩攻撃の口実ともなった。(戊辰戦争・奥羽戦争)
慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」では、松平権十郎を中心とする派閥が尊皇派(新政府軍)を攻撃し、藩論を佐幕派へ統一した。これにより会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つとなった。奥羽越列藩同盟は当初は会津藩、庄内藩の謝罪嘆願を目的としたものであったがこれが聞き入れられないと直ちに軍事同盟へと変わった。
さらに会津藩と庄内藩との間では会庄同盟が締結され、薩摩・長州を中心とした新政府軍と対峙することを誓った。戊辰戦争が勃発すると新政府軍に与した新庄藩や久保田藩領内へ侵攻を開始し、新庄城、矢島陣屋や本庄陣屋などを落とした。
庄内藩は酒田の豪商「本間家」の莫大な献金を元に最新式兵器を購入し軍事力強化に努めた。各地の国境において新政府軍を退けた連戦連勝であった。その後、中老酒井玄蕃率いる二番大隊を中心に「新庄城」を落とし、次いで「久保田藩領」へ攻め入った。
「横手城」を陥落させた後はさらに北進し「久保田城」へと迫ったが、新政府軍が秋田戦線へ「アームストロング砲」や「スペンサー銃」など、最新兵器で武装した佐賀藩兵を援軍として投入したため、戦線は旧藩境付近まで押し戻されて膠着状態となった。
その後、奥羽越列藩同盟の盟主の一角である「米沢藩」が降伏したため、藩首脳部は軍の撤退を決意し、さらに会津藩が降伏したことを受けて、庄内藩も恭順した。結果的には恭順したものの庄内藩は最後まで自領に新政府軍の侵入を許さなかった。
明治元年(1868年)、12月に領地を没収され、藩主「酒井忠篤」は謹慎処分となったが、弟の「酒井忠宝」が12万石に減封の上、陸奥会津藩へ移封、翌明治2年(1869年)には磐城平藩へと転封を繰り返した。本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に多額の献金をして明治3年(1870年)酒井氏は念願の庄内領へ復帰した。
共に列藩同盟の盟主であった「会津藩」が解体と流刑となったのとは逆に、庄内藩は比較的軽い処分で済んだ。これには明治政府軍の中心人物である薩摩藩の「西郷隆盛」の意向があったと言われ、この後に庄内地方では西郷隆盛が敬愛され明治初期には薩摩藩へ留学生を出すまでに至っている。
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