- 全藩, 北海道・東北地方
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【藩名】
盛岡藩
【説明】
明治元年(1868年)、藩内は「新政府派」と「旧幕府派」に対立していたが、最終的に家老「楢山佐渡」が「奥羽越列藩同盟」への参加で藩論を一致させた。そして、新政府軍についた久保田藩(秋田藩)領に攻め込んだ。南部藩は秋田戦争において「大館城」を陥落させたが、その後は新政府軍から大量の補給物資が久保田藩に到達し、戦況は一変。多くの戦闘を繰り返しながら南部軍は元の藩境まで押し返えされてしまう。
盛岡藩領内へ戻った「楢山佐渡」や他の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した新政府側勢力によって捕縛され、盛岡藩は新政府軍側へと態度を変更した。なお、遠野南部家は当初から新政府軍につくことを主張し、八戸藩は藩主「南部信順」が薩摩藩主「島津重豪」の実子であり養子藩主だったこともあり、ともに「秋田戦争」には参加していない。
戊辰戦争の戦後処理として、途中から新政府側に参加した「久保田藩」「弘前藩(津軽藩)」が論功行賞を受ける一方で、転封を命じられたのは、盛岡藩と会津藩、庄内藩、それに近江朝日山に5万石で移された山形藩などが該当する。盛岡藩は41代当主「南部利恭」が家名相続を許されて白石への転封を命じられた。減封を命じられた仙台藩は62万石から28万石に、米沢藩は4万石を減封され14万7,000石となった。
白石領は仙台藩が減封となった地で南部家は13万石にて入封した。その後「版籍奉還」に伴い「南部利恭」は白石藩知事に就任したが、地元領民や南部藩関係者による南部盛岡領への帰還運動は続けられ、ついに上納金70万両を条件にその願いが認められた。
ほどなく南部領へ戻った南部一族だったが明治4年の「廃藩置県」により南部藩は廃藩の上「南部県」となりその後岩手県と改名された。
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