長州藩(萩藩、毛利藩)/毛利家36万石:毛利元徳 鳥羽・伏見の戦いを制し戊辰戦争を戦い抜いた長州藩【幕末維新写真館】

長州藩(萩藩、毛利藩)/場所・アクセス・地図 毛利家36万石:毛利元徳 鳥羽・伏見の戦いを制し戊辰戦争を戦い抜いた長州藩【幕末維新写真館】

【藩名】
長州藩(萩藩、毛利藩)

【説明】
長州藩は「関ヶ原の戦い」前までは安芸を中心とした112万石を領する大大名であった。しかし、関ヶ原の戦いに敗れると徳川家康から周防・長門の2ヶ国36万石に追いやられた。その後多くの支藩を作りだし、長府藩、清末藩、徳山藩、岩国藩などがあげられる。

幕末になると、元治元年(1864年)の池田屋事件や「禁門の変」で多くの犠牲を出した長州藩に対し、幕府は「徳川慶勝(名古屋藩主)」を総督とした「第一次長州征伐」を行った。長州藩では「椋梨藤太」ら幕府恭順派が実権を握り、「周布政之助」や家老「益田親施」ら主戦派は失脚して粛清された。藩主「毛利敬親」父子は謹慎し幕府へ降伏した。その後、完成したばかりの山口城を一部破却して藩主父子は萩城へと退いた。

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恭順派の追撃から逃れていた主戦派の「高杉晋作」は、伊藤俊輔(博文)らと共に、民兵組織である「力士隊」と「遊撃隊」を率いて藩の実権を握ろうと決起した。(功山寺決起)初めは僅か80人で挙兵した決起隊に、奇兵隊が呼応するなど各所で勢力を増やして萩城へ攻め上り、恭順派を倒した。この後、潜伏先より帰藩した「桂小五郎(木戸孝允)」を迎え、再び主戦派が藩の実権を握った。

長州藩は、奇兵隊を中心とした諸隊を正規軍に抜擢し、幕府の「第二次長州征伐」軍と戦った。この戦では「高杉晋作」と「村田蔵六(大村益次郎)」が陸軍・海軍の総督をつとめ、四方から押し寄せる幕府軍を打ち破り、第二次幕長戦争(四境戦争)に勝利する。この戦のさなか、将軍「徳川家茂」の病死もあり、長州藩に敗北した幕府の威信は急速に弱まった。

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その後、「坂本龍馬」の斡旋でグラバー商会から薩摩藩名義で軍艦ユニオン号を50000両で購入し、慶応2年(1866年)には土佐藩の「坂本龍馬」を仲介として京都薩摩藩邸で薩摩藩との政治的・軍事的な同盟である「薩長同盟」を結んだ。薩長による討幕運動の推進により、第15代将軍「徳川慶喜」は「大政奉還」を行い江戸幕府はついに崩壊した。そして、王政復古の大号令が行われると、薩摩藩と長州藩は新政府を樹立しその中核となっていく。

慶応4年(1868年)1月、京都にて旧幕府軍と薩摩・長州藩との間で「鳥羽・伏見の戦い」が勃発し、最新洋式装備の両藩はこの戦いに勝利し各地に新政府による鎮撫使を派遣し江戸へと軍を進めた。江戸では西郷隆盛と勝海舟との間で交渉が行われ、江戸城総攻撃は中止となり江戸城は無血開城に決した。

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無血開城したとはいえ、旧幕府脱走兵が各地で盤踞しており、「大村益次郎」が上野の彰義隊を壊滅に追いやった。(上野戦争)戦争などで活躍した。その後も北越戦争や会津戦争、庄内戦争を経て、最後の決戦、蝦夷地「五稜郭の戦い」を制し戊辰戦争は終結した。

明治2年(1869年)、版籍奉還にて最後の藩主「毛利元徳」が山口藩知事となる。明治4年(1871年)、山口藩は支藩の徳山藩と合併し、同年の「廃藩置県」で山口藩は廃止され山口県となった。

【場所・アクセス・地図】






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