【藩名】
岩国藩(長州藩支藩)
【説明】
慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」で「吉川広家」は徳川家康率いる東軍に内通し、毛利勢の動きを封じ、関ヶ原の本戦に参加させなかった。当初、「黒田長政」を通じて徳川家康より所領安堵の密約を取りつけていたが、戦後家康は大坂における毛利輝元の行為を理由として毛利家を取り潰し、吉川家を取り立てようとした。
広家は事態収拾のために奔走し、結果として毛利氏の改易は免れ、本来広家に与えられるはずだった長門国・周防国2ヶ国を毛利本家が与えられた。広家は豊臣時代には出雲国富田で14万石を領していたが、毛利宗家の没落とともに岩国に3万石を与えられた。
幕末にあっては、藩自体は佐幕的態度を示していた。元治元年(1864年)から慶応元年(1865年)にかけての「長州征討」に際しては、第12代当主「吉川経幹」が長州藩と幕府の間に立って周旋を行い、幕府方の派兵の延期を取り付けた。しかし、結果的に長州藩は幕府軍の撃退しこの戦いには勝利した。
この「四境戦争(第二次長州征伐)」において岩国藩は芸州口で幕府軍と交戦しこれを撃破することに貢献した。吉川経幹は慶応3年(1867年)3月20日、死去するが、毛利敬親の命令でその死が隠された。慶応4年(1868年)3月13日、「徳川慶喜」の大政奉還の後、新政府が樹立され岩国藩は独立した藩として正式に認められた。
経幹は生存しているものとして城主格兼正式な藩主として認められ、岩国藩初代藩主となった。経幹は明治元年12月28日(1869年2月9日)に長男「経健」に家督を譲って隠居した形となった。「戊辰戦争」では主に「東北戦争」で功績を挙げ、戦後は永世5000石を与えられた。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により岩国県となり、同年11月15日、山口県に編入された。
【場所・アクセス・地図】
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