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唐津藩/小笠原家6万石:小笠原長行 老中や幕府要職を歴任し函館戦争まで戦った小笠原長行【幕末維新写真館】
【藩名】 唐津藩 【説明】 「寺沢広高」は「豊臣秀吉」に仕え、文禄元年(1592年)の文禄の役では肥前名護屋城の普請や後方兵站の責任者を務めて功績を挙げたことにより、秀吉から名護屋を含む上松浦郡一帯およそ8万3…詳細を見る -
篠山藩/青山家6万石:青山忠敏 藩論が佐幕・尊皇に割れたが西園寺公望引きいる新政府軍が城下に迫ると恭順した篠山藩【幕末維新写真館】
【藩名】 篠山藩 【説明】 寛延元年(1748年)8月、青山忠朝が5万石で丹波亀山藩へ移封となった。以降、江戸期を通じて青山氏による篠山統治時代が幕末まで続いた。譜代大名である青山氏は文久3年(1863年)8月…詳細を見る -
伊勢亀山藩/石川家6万石:石川成之 譜代大名のため佐幕派・尊皇派に割れた亀山藩【幕末維新写真館】
【藩名】 伊勢亀山藩 【説明】 享保2年(1717年)11月1日、「松平乗邑」が山城淀藩へ移封となる。その後「板倉重治」が入封するが第2代藩主「板倉勝澄」の時に「石川総慶」と領地交代という形で備中松山藩へ移封と…詳細を見る -
西尾藩/松平家6万石:松平乗秩 尾州尾張藩に従い新政府軍に恭順した西尾藩【幕末維新写真館】
【藩名】 西尾藩 【説明】 第3代藩主「松平乗寛」は「松平定信」の「寛政の改革」に参与し、幕政改革に従って藩政改革などを行った。第4代藩主「松平乗全」は「井伊直弼」の「安政の大獄」で井伊派として一橋派の処分に務…詳細を見る -
浜松藩/井上家6万石:井上正直 徳川家達が駿府70万石で移封となり上総鶴舞藩へ替地を賜った浜松藩【幕末維新写真館】
【藩名】 浜松藩 【説明】 天保5年(1834年)、「水野忠邦」は老中となったことから1万石の加増を受けて浜松7万石の大名となる。しかし、「天保の改革」に失敗したことから弘化2年(1845年)9月に2万石を減封…詳細を見る -
松本藩/松平家6万石:松平光則 天狗党の乱・北越戦争・会津戦争へ参戦した松本藩【幕末維新写真館】
【藩名】 松本藩 【説明】 幕末の松本藩は、安政2年(1855年)藩主「松平光則」によって財政・軍制を中心とした藩政改革が行なわれた。「天狗党の乱」では元治元年(1864年)11月に諏訪藩兵と共に中山道の和田峠…詳細を見る -
新庄藩/戸沢家6万石:戸沢正実 戊辰戦争では庄内藩の攻撃で落城した新庄藩【幕末維新写真館】
【藩名】 新庄藩 【説明】 新庄藩は、慶応3年(1867年)の江戸薩摩藩邸焼討に庄内藩・上山藩・出羽松山藩と共に派兵したが、直接「薩摩藩」とは交戦せず、江戸市中の警備を担当した。翌慶応4年(1868年)に勃発し…詳細を見る -
大洲藩/加藤家6万石:加藤泰秋 早くから勤王の藩として鳥羽伏見の戦いにも参戦した大洲藩【幕末維新写真館】
【藩名】 大洲藩 【説明】 江戸時代初期の大洲は「藤堂高虎」の所領であり、大洲城主として丹羽長秀の子で高虎の養子の「藤堂高吉」が在城した。慶長13年(1608年)、高虎は伊勢国津藩に転封となったが、大洲の地は高…詳細を見る -
米子藩/加藤家6万石:加藤貞泰 伊予大洲藩へ加増転封のため廃藩【幕末維新写真館】
【藩名】 米子藩 【説明】 慶長14年(1609年)5月11日、「中村一忠」は20歳の若さで急死した。一忠には3人の子供がいたが領国の継承は認められず中村氏は改易となった。慶長15年(1610年)7月19日、美…詳細を見る -
鶴舞藩/井上家6万石:井上正直 徳川家の駿河・遠江入封に伴い浜松藩から移封の上で立藩【幕末維新写真館】
【藩名】 鶴舞藩 【説明】 明治維新により徳川幕府が敗れ新政府が樹立されると、徳川家は江戸や全国の天領を没収された代わりに、駿河・遠江70万石を安堵された。これのより駿河・遠江の大名は上総に移封され、浜松藩は上…詳細を見る -
館林藩/秋元家6万石:秋元礼朝 新政府軍に恭順し奥羽戦線に派兵した館林藩【幕末維新写真館】
【藩名】 館林藩 【説明】 館林藩は長州藩と縁戚関係にあったため、常陸水戸藩と共に関東における尊皇攘夷派の急先鋒となった。ところがこの親戚関係が幕府からの嫌疑を招き、元治元年(1864年)7月の「禁門の変」の後…詳細を見る -
相馬中村藩/相馬家6万石:相馬誠胤 奥羽越列藩同盟に参加し仙台藩・米沢藩と共に新政府軍と交戦したが早々に恭順した相馬中村藩【幕末維新写真館】
【藩名】 相馬中村藩 【説明】 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では南境の「磐城平藩」や北境の「仙台藩」とともに「奥羽越列藩同盟」に参加し、浜街道を北上してきた新政府軍に対して「仙台藩」や「米沢藩」と共に応戦(…詳細を見る
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