タグ:長州藩
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久留米藩/有馬家21万石:有馬頼咸 禁門の変で長州藩兵とともに戦った真木和泉を排出した久留米藩【幕末維新写真館】
【藩名】 久留米藩 【説明】 元和6年(1620年)、丹波国福知山藩8万石の大名であった「有馬豊氏」は、13万石の加増を受け久留米21万石の領主として入封した。大幅な加増は「大坂の陣」の功績とされている。久留米…詳細を見る -
福岡藩/黒田家43万3千石:黒田長知 幕末時は親長州藩の立場で早くから新政府側についた福岡藩【幕末維新写真館】
【藩名】 福岡藩 【説明】 慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」の功により、筑前の一部を領有していた「小早川秀秋」が備前国岡山藩に移封となった。代わって豊前国中津藩主「黒田長政」が同じく関ヶ原の戦功により筑…詳細を見る -
長州藩(萩藩、毛利藩)/毛利家36万石:毛利元徳 鳥羽・伏見の戦いを制し戊辰戦争を戦い抜いた長州藩【幕末維新写真館】
【藩名】 長州藩(萩藩、毛利藩) 【説明】 長州藩は「関ヶ原の戦い」前までは安芸を中心とした112万石を領する大大名であった。しかし、関ヶ原の戦いに敗れると徳川家康から周防・長門の2ヶ国36万石に追いやられた。…詳細を見る -
岩国藩(長州藩支藩)/吉川家3万石:吉川経幹 四境戦争では芸州口で幕府軍を撃退した岩国藩【幕末維新写真館】
【藩名】 岩国藩(長州藩支藩) 【説明】 慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」で「吉川広家」は徳川家康率いる東軍に内通し、毛利勢の動きを封じ、関ヶ原の本戦に参加させなかった。当初、「黒田長政」を通じて徳川家…詳細を見る -
津和野藩/亀井家4万3千石:亀井茲監 長州藩の隣藩ということもあり早くから新政府に属した津和野藩【幕末維新写真館】
【藩名】 津和野藩 【説明】 元和3年(1617年)7月20日、因幡鹿野藩より「亀井政矩」が4万3000石で入封し、亀井氏が明治時代まで藩主をつとめた。初代藩主「政矩」は幕府の信任が厚く一時は姫路藩移封の話もあ…詳細を見る -
浜田藩/松平家6万1千石:松平武聰 長州藩大村益次郎の軍に惨敗し城を捨てて敗走した浜田藩【幕末維新写真館】
【藩名】 浜田藩 【説明】 第4代藩主「松平康爵」は天保7年(1836年)、3月12日に陸奥棚倉藩へ懲罰的な転封となった。その後、上野国館林藩より第6代将軍「徳川家宣」の弟「清武」を祖とする越智松平家の「松平斉…詳細を見る -
千束藩(小倉藩支藩)/小笠原家1万石:小笠原貞正 小倉藩宗家とともに長州藩と戦うも惨敗し熊本藩領まで逃れた千束藩【幕末維新写真館】
【藩名】 千束藩(小倉藩支藩) 【説明】 千束藩は小倉藩の支藩で当初は小倉新田藩と称した。寛文7年(1667年)、小倉藩2代藩主「小笠原忠雄」の藩主就任時、弟の真方が1万石を領内に分与されて立藩した。藩主は参勤…詳細を見る -
長府藩(長州藩支藩)/毛利家5万石:毛利元敏 下関戦争や戊辰戦争を本藩と共に戦った長府藩【幕末維新写真館】
【藩名】 長府藩(長州藩支藩) 【説明】 「関ヶ原の戦い」の後に「毛利輝元」が112万石から周防・長門の2か国29万8千石に減封された際に、輝元は東の守りとして岩国に「吉川広家」を置き、西の守りとして改めて長門…詳細を見る -
徳山藩(下松藩、長州藩支藩)/毛利家4万石:毛利元蕃 鳥羽・伏見の戦いから奥羽戦争 函館戦争にも参戦した徳山藩【幕末維新写真館】
【藩名】 徳山藩(下松藩、長州藩支藩) 【説明】 慶安3年(1650年)6月、もともと下松に藩政庁があったが、藩主「毛利就隆」が交通の要路である徳山に藩庁を移した。この地は野上と言われていたが徳山と改称した。天…詳細を見る -
鶴田藩/松平家2万8千石:松平武聰 旧浜田藩主松平武聰が長州藩に追われ飛地まで撤退して立藩【幕末維新写真館】
【藩名】 鶴田藩 【説明】 鶴田藩は幕末から明治初頭まで存在した藩で藩庁は鶴田陣屋に置かれた。慶応2年(1866年)の第二次長州征伐の際、長州藩の「大村益次郎」引きいる南園隊を中心とした長州軍に完敗して松江城に…詳細を見る -
浜田城:家康より古田重治が拝領し幕末には松平武聡が長州藩の攻撃により城を焼失 浜田城【お城特集 日本の歴史】
【城名】 浜田城 【浜田城の説明】 浜田城は島根県浜田市殿町にあった平山城である。大坂の陣の功績により「古田重治」が家康より5万4000石にてこの地に入封し城や城下町を築いた。 二代当主「古田重恒…詳細を見る
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