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常陸宍戸藩(水戸藩支藩)松平家1万石:松平頼徳 天狗党の乱鎮圧に失敗して切腹 改易された宍戸藩【幕末維新写真館】
【藩名】 常陸宍戸藩 【説明】 元々は「秋田実季」が5万石で入封したが陸奥三春藩へ転封のため、水戸藩の支藩として宍戸藩が立藩された。8代藩主「松平頼位」は水戸藩主「徳川斉昭」に同調して、軍事改革などを積極的に行…詳細を見る -
笠間藩(越後国長岡藩支藩)/牧野家8万:牧野貞寧 長岡藩とは別行動を取り会津藩攻撃にも加わった笠間藩【幕末維新写真館】
【藩名】 笠間藩(越後国長岡藩支藩) 【説明】 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの翌年「松平康重」が武蔵騎西藩から3万石で入封して笠間藩を立藩した。慶長13年(1608年)に康重が丹波篠山藩へ移封されると、…詳細を見る -
勝浦藩/大岡家2万石:大岡忠光 武蔵国岩槻藩へ加増転封のため飛地となり廃藩【幕末維新写真館】
【藩名】 勝浦藩 【説明】 天和2年(1682年)4月、上総・安房・近江・丹波などに所領を持っていた「植村忠朝」は新たに2000石を加増されて1万1000石を領する大名となり、「勝浦藩」を立藩した。植村氏は「本…詳細を見る -
百首藩(造海城)/松平家1万500石:松平重則 下野皆川へ移封のため廃藩【幕末維新写真館】
【藩名】 百首藩(別名:造海城) 【説明】 寛永10年(1633年)4月、「松平重則」が4000石を加増され1万500石を領する大名とし列すると「百首藩」を立藩した。しかし、寛永17年(1640年)、所領を下野…詳細を見る -
淀藩/稲葉家10万2千石:稲葉正邦 鳥羽・伏見の戦いでは敗戦した旧幕府軍を収容しなかった淀藩【幕末維新写真館】
【藩名】 淀藩 【説明】 淀藩の藩主家稲葉氏は10万2,000石という大領ではあったが、その所領は山城のほかに摂津・河内・近江・下総・越後などの多方面に分散しており、山城にあった所領は2万石にも満たなかったと伝…詳細を見る -
伊勢上野藩/分部家2万石:分部光信 近江大溝藩へ加増転封のため紀州藩領になり廃藩【幕末維新写真館】
【藩名】 伊勢上野藩 【説明】 分部氏は戦国時代、伊勢国中部を領していた「長野豊藤」の五男「分部祐成」から始まる一族である。分部光嘉のとき、尾張の「織田信長」による伊勢侵攻が始まり光嘉は信長に恭順したため分部氏…詳細を見る -
犬山藩(尾張藩附家老)/成瀬家3万5千石:成瀬正肥 幕末の明治維新で尾張藩より独立した成瀬氏の犬山藩【幕末維新写真館】
【藩名】 犬山藩(尾張藩附家老) 【説明】 元和3年(1617年)、「徳川義直」の附家老として「成瀬正成」が3万石で入封し、尾張藩を補佐する成瀬氏犬山藩が立藩された。第3代当主「成瀬正親」の時代に5000石の加…詳細を見る -
勝山城(越前):柴田勝家の一族柴田勝安が築城した越前勝山城(模擬天守)【お城特集 日本の歴史】
【城名】 勝山城(越前) 【勝山城の説明】 越前勝山城は現在の福井県勝山市にあった平城である。 柴田勝家が主君「織田信長」より越前国を拝領すると勝家は一族の「柴田勝安」に勝山城の築城を命じた。 勝家が滅…詳細を見る -
館城:函館戦争直前に松前藩が築城した城で旧幕府軍に攻撃された館城【お城特集 日本の歴史】
【城名】 館城 【館城の説明】 館城(たてじょう)は、現在の厚沢部町に築城された松前藩の城である。 明治元年(1868年)、函館戦争直前に松前藩が松前城(福山城)から本拠を移すために築城された。その理由の一つ…詳細を見る -
権現台場:五稜郭と四稜郭を結ぶ重要な位置に築かれた権現台場【史跡 日本の歴史】
【史跡名】 権現台場 【権現台場の説明】 権現台場は函館東照宮を中心に建設された旧幕府軍の台場である。明治2年(1869年)4月、新政府軍の襲撃を予想していた榎本武揚率いる旧幕府軍は各地に台場や陣地を建設した。…詳細を見る -
三稜郭跡:五稜郭と四稜郭だけじゃない!!三稜郭の存在が浮上(比遅里神社内)【史跡 日本の歴史】
【史跡名】 三稜郭跡 【三稜郭跡の説明】 榎本脱走艦隊(蝦夷共和国)では新政府軍の襲撃に備えて各地で砲台や陣屋の建設を急いだ。明治2年(1869年)、旧幕府軍は「弁天台場」の改修をはじめ、千代ヶ岡台場、権現台場…詳細を見る -
宮古湾海戦の碑:旧幕府軍「回天丸」が新政府軍旗艦「甲鉄艦」奪取を試みた海戦【史跡 日本の歴史】
【史跡名】 宮古湾海戦の碑 【宮古湾海戦の碑の説明】 明治2年(1869年)5月6日、榎本武揚率いる旧幕府軍は海軍力の劣っている穴を埋めるため宮古湾に停泊している新政府軍の旗艦「甲鉄艦」を奪取する斬り込み攻撃を…詳細を見る -
一本木関門跡:新選組結成から函館戦争の最後まで戦い抜いた新選組土方歳三最期の地碑【史跡 日本の歴史】
【史跡名】 一本木関門跡(土方歳三最期の地碑) 【一本木関門跡(土方歳三最期の地碑)の説明】 京都で新選組を結成してから鳥羽伏見の戦いで敗れ江戸に帰還し、大鳥圭介ら旧幕府軍と北関東で戦い、さらには会津戦争にも参…詳細を見る -
母成峠古戦場跡:会津藩兵や大鳥圭介率いる伝習隊・新選組と新政府軍と戦闘があった母成峠【史跡 日本の歴史】
【史跡名】 母成峠古戦場跡 【母成峠古戦場跡の説明】 慶応4年(1868年)、二本松城を落とした新政府軍は次の目標を会津藩に定めた。一方会津藩は広大な領内に兵力を分散する必要があり、どこに主力部隊を配置するかが…詳細を見る -
八木邸跡:近藤勇・芹沢鴨・土方歳三が会津藩預かり新選組結成時の屯所 八木邸【史跡 日本の歴史】
【史跡名】 八木邸跡 【八木邸跡の説明】 近藤勇・芹沢鴨・土方歳三らが会津藩お預かりの新選組を結成した時に屯所としたのが八木邸である。当初は近藤派と芹沢派に割れていた新選組だが、土方らの策略により「芹沢鴨」は暗…詳細を見る -
お台場:幕末江戸湾海上防衛のため江川太郎左衛門が建設した砲台跡(第三台場・第六台場)【史跡 日本の歴史】
【史跡名】 お台場砲台跡 【お台場砲台跡の説明】 嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が日本に来航するとこれに驚いた徳川幕府は急遽江戸湾の防衛強化を急いだ。この頃、韮山代官の「江川太郎左衛門」が江戸湾砲台建設の提…詳細を見る -
千代ヶ岡陣屋(千代ヶ岡台場):函館戦争で壮絶な最期を迎えた中島三郎助終焉の地【史跡 日本の歴史】
【陣屋名】 千代ヶ岡陣屋(千代ヶ岡台場) 【千代ヶ岡陣屋(千代ヶ岡台場)の説明】 千代ヶ岡陣屋(千代ヶ岡台場)は函館市にある五稜郭の少し南に築かれた陣屋である。文化5年(1808年)、日露関係が緊迫した中、幕府…詳細を見る -
琉球藩/尚氏8万9千石:尚泰 明治政府より琉球藩王に任命されるも最後は東京へ連行された尚泰【幕末維新写真館】
【藩名】 琉球藩 【説明】 1872年(明治5年)、廃藩置県の翌年、琉球国王「尚泰」は明治政府により「琉球藩王」とされるとともに大日本帝国の華族の身分を与えられ、これにより琉球藩が設置された(第一次琉球処分)。…詳細を見る -
薩摩藩(鹿児島藩)/島津家77万石:島津忠義 鳥羽伏見の戦いから五稜郭まで戦い抜き維新を実現させた薩摩藩【幕末維新写真館】
【藩名】 薩摩藩(鹿児島藩) 【説明】 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍につくが、徳川四天王の一人「井伊直政」の取りなしで本領を安堵され、島津義弘の三男「家久」が当主と認められた。この時点をもって正…詳細を見る -
富岡藩(天草藩)/戸田家2万1千石:戸田忠昌 島原の乱で荒廃したあと天領となった高岡藩【幕末維新写真館】
【藩名】 富岡藩(天草藩) 【説明】 慶長6年(1601年)より、天草郡は唐津藩領(4万2千石)となっていた。慶長10年(1605年)唐津藩主「寺沢広高」により富岡城と城下町が完成し、2代藩主「堅高」の時に勃発…詳細を見る
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